なるせ まさかず
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 武骨・忠義 |
三河出身の徳川家臣で、成瀬正成の父。通称は吉右衛門。一時は武田信玄に仕え、のち徳川家康のもとへ戻って高天神城の奪還などで働いた。武田氏の滅亡後は日下部定好とともに甲斐の奉行を務め、近江浅井郡の代官も務めた。
三河の成瀬氏
成瀬正一は、三河の武士・成瀬氏の出身である。天文7年(1538年)に生まれた。父は成瀬正頼。通称は吉右衛門。のちに尾張藩の付家老・犬山城主となる成瀬正成の父である。兄の正義の死後に家督を継いだとされる。
子の正成は家康に仕えて重く用いられ、のちに尾張藩主・徳川義直の付家老(幕府が付けた家老)となった。
武田家への出仕と帰参
正一は一時、徳川家康のもとを離れ、武田信玄に仕えた。永禄3年(1560年)頃のことという。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、討たれた武田方の諸角虎定の首を取り返したと伝わる。
その後、徳川家に戻った。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに従ったとされる。天正3年(1575年)の長篠の戦いは、織田・徳川の連合軍が武田勝頼を破った戦いである。正一はこの戦いで、武田家の内情に通じていたことから重く用いられたという。
遠江の高天神城は、天正2年(1574年)に武田勝頼に奪われていた。天正9年(1581年)、徳川軍はこの城を取り戻した。正一はこの戦いで働いた。
甲斐奉行と晩年
天正10年(1582年)、武田氏が滅んだ。同じ年の本能寺の変の後、甲斐は北条氏との争いを経て家康の領国となった。正一は日下部定好とともに甲斐の奉行を務めた。武田氏の旧臣の所領を認め、徳川家に取り込む仕事にあたったとされる。
その後、武蔵の鉢形城の代官や、近江国浅井郡の代官などを務めたとされる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍に従ったとされる。晩年は伏見にあったという。元和6年(1620年)6月28日に没した。83歳であった。
ゆかりの地
- 高天神城跡(静岡県掛川市):天正9年に徳川軍が武田方から奪い返した城。正一もこの戦いで働いた。


















































































