わたなべ もりつな
| 地域 | 三河国(愛知県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣・尾張藩付家老 |
| 大名家 | 徳川家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 南蛮胴具足(家康から拝領) |
| 武将タイプ | 猛将・槍の名手 |
渡辺守綱は、徳川家康に仕えた武将である。槍の名手として知られ、「槍半蔵」の異名をとった。晩年は尾張藩主徳川義直の付家老となり、1万4000石を領して三河の寺部を治めた。
槍半蔵と呼ばれる
天文11年(1542)、三河国碧海郡浦部(愛知県岡崎市)に生まれた。家康と同じ年である。渡辺高綱の長男で、通称は半蔵、忠右衛門。平安時代の武士渡辺綱の子孫を名のる家で、代々松平家に仕えた。
初陣は桶狭間の戦いのあとの石ヶ瀬の戦いで、敵の首を取った。永禄5年(1562)、今川氏真方との戦いで味方が退くとき、最後尾で敵を食い止めて奮戦した。これにより「槍の半蔵」と呼ばれるようになった。
三河一向一揆と父の死
永禄6年(1563)に三河一向一揆が起こると、守綱は信仰を選んで一揆側につき、勝鬘寺を守った。ただし主君を倒すつもりまではなく、家康が姿を見せるとすぐに退いたという。
このとき父の高綱は、逃げ遅れた守綱をかばって矢を受け、その夜に亡くなった。和睦のあと家康は守綱を許し、父の領地であった浦部村のうち130貫文を継ぐことを認めた。
三河一向一揆では、家康の家臣の中にも一揆側についた者が多く出た。守綱もその一人だったが、のちに許されて再び家康のために戦うことになった。
家康の天下取りを支える
元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは、敗走の中を逃げのびたのち、浜松城の守りに加わって敵の大将格を槍で討ったと伝わる。
家康が関東に移ると、武蔵国で3000石を与えられ、足軽50人を預けられた。慶長5年(1600)には家康から南蛮胴具足を贈られ、さらに足軽50人を加えて100人を率いた。
尾張藩の付家老として
慶長18年(1613)、家康の命で尾張藩主徳川義直に付けられ、幼い義直を補佐する付家老となった。領地は1万4000石で、大名に並ぶ大きさである。三河の寺部城の跡に陣屋を置き、城下町をつくった。大坂の陣にも70歳を超えて出陣した。
元和6年(1620)4月9日、名古屋で亡くなった。79歳であった。子の重綱が墓を造り堂を建てたのが、寺部の守綱寺の始まりである。守綱寺は寺部領主渡辺家の菩提寺となり、本堂裏の墓所には守綱を先頭に歴代の墓石が並んでいる。
子の重綱も大坂冬の陣で先陣の大将を務めた。寺部では、水害のあとに「百人堤」と呼ばれる堤防が築かれたことも伝わっている。
ゆかりの地
- 守綱寺(愛知県豊田市寺部町):寺部渡辺家の菩提寺。守綱と歴代当主の墓所がある
- 勝鬘寺(愛知県岡崎市針崎町):三河一向一揆のとき守綱が一揆方として守った寺
参考にした資料
渡辺守綱とは
渡辺守綱は、徳川家康に仕えた三河の武将で、「槍半蔵」と呼ばれた槍の名手です。
槍半蔵
守綱は、槍の腕前から「槍半蔵」と呼ばれ、服部半蔵(鬼半蔵)と並んで知られました。
三河一向一揆
守綱は、三河一向一揆の際に一揆側についたこともありましたが、のちに家康に許されました。
尾張藩の付家老
守綱は、のちに家康の九男・義直に付けられ、尾張藩の重臣となりました。
評価
守綱は、槍の名手として家康の天下取りを支え、尾張藩の重臣として家を残した武将です。
このイラストについて
このイラストは、旗の並ぶ戦場で、槍を構える年配の守綱を描いています。
白髪の顔と鋭い目つき、力強い構えで、槍半蔵と呼ばれた名手の気迫を表しました。
背後の旗と兵は、家康の軍の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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