たけだ もとあき
| 地域 | 近畿・北陸 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 若狭武田氏 |
| 大名家 | 若狭武田氏 |
| 家紋 | 丸に武田菱 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・滅亡 |
若狭武田氏最後の当主。織田信長に若狭を奪われ、本能寺の変において明智光秀に味方して長浜城を攻撃したため秀吉に処刑された。
武田元明とは
武田元明は、若狭の守護を務めた若狭武田家の最後の当主です。父・武田義統のあとを、若くして継ぎました。
後瀬山城
若狭武田家の本拠の後瀬山城は、小浜の町を見下ろす山の上にありました。城跡には石垣や曲輪の跡が残っています。
朝倉家のもとへ
元明が家を継いだころ、若狭武田家の力は衰えていました。永禄11年(1568年)、元明は越前の朝倉義景によって越前へ連れて行かれました。
信長の若狭支配
朝倉家が滅びたのち、元明は若狭に戻りましたが、若狭は信長の家臣・丹羽長秀に任されました。元明は、わずかな所領を持つだけの立場になりました。
妻・竜子
元明の妻の竜子は、京極家の出身です。元明の死後、竜子は秀吉の側室となり、松の丸殿と呼ばれました。
本能寺の変
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、元明は明智光秀に味方しました。若狭武田家の再興を望んだためと考えられます。
長浜城攻め
元明は、京極高次とともに、秀吉の本拠だった近江の長浜城を攻めたと伝えられます。
山崎の戦いの後
明智光秀が山崎の戦いで敗れると、元明は追い詰められました。丹羽長秀のもとに呼び出され、近江で自害させられたとされます。
若狭武田家の終わり
元明の死によって、若狭武田家は大名としての歴史を閉じました。
小浜の町
若狭の小浜は、日本海の港町として栄え、京へ海の幸を運ぶ「鯖街道」の起点としても知られます。
若狭武田家の文化
若狭武田家は、京の文化に親しみ、連歌などをたしなんだ当主が多くいました。小浜には、武田家ゆかりの寺も残っています。
京極高次
元明の妻・竜子の兄弟である京極高次は、のちに大名として返り咲き、関ヶ原の前には大津城を守り抜きました。
丹羽長秀
信長の重臣・丹羽長秀は、若狭を任されて小浜を治めました。元明は、その下で暮らすことになりました。
元明の墓
元明の墓とされるものは、近江の海津などに伝わっています。
竜子のその後
元明の妻・竜子は、秀吉の側室となったのちも長く生き、晩年は京で過ごしました。
若狭の守護
若狭武田家は、室町時代に若狭の守護となり、代々この国を治めてきた名門でした。
安芸武田家との関係
若狭武田家は、安芸の武田家と同じ流れをくむ家とされます。
評価
元明は、名門の家を継ぎながら、時代の大きな流れの中で家の力を取り戻せなかった当主です。本能寺の変での選択が、若狭武田家の最後を決めることになりました。
このイラストについて
このイラストは、曇り空の下、湖と城を背に立つ元明を描いています。
端正な顔立ちと、紋の入った甲冑で、名門・若狭武田家の当主らしい気品を表しました。
暗い雲と遠くの城は、本能寺の変ののちの不安な情勢をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
甲斐武田氏の一族で、室町時代に若狭の守護となった家。後瀬山城を本拠とし、室町幕府との結びつきが強かった。
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