なるせ まさなり
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 洗練具足 |
| 武将タイプ | 知性的・勇猛 |
成瀬正成は徳川家康の側近で、小牧・長久手の戦い以来の合戦に従った。駿府で政務に関わった後、家康の九男・徳川義直の付家老となり、元和3年(1617年)に犬山城を預かった。以後、成瀬家は代々犬山城主を務めた。
家康の側近として
成瀬正成は永禄10年(1567年)または11年(1568年)の生まれである。幼名は小吉、官途は隼人正。
若くから徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い以来、たびたび合戦に加わった。根来衆(紀伊の根来寺の鉄砲集団)の一部を配下に預かったともいわれる。関ヶ原の戦いの後は、下総国栗原に所領を与えられた。
成瀬氏は三河以来の徳川家臣の家である。正成は小牧・長久手の戦いに17歳前後で加わり、その働きで家康に認められたと伝わる。
駿府の政務と大坂の陣
慶長12年(1607年)、正成は駿府に移った家康のもとで政務を担った。同じ年、家康の九男・徳川義直の守役ともなった。
大坂の陣にも従い、講和の後には本多正純とともに大坂城の堀の埋め立てを奉行した。
駿府では本多正純らとともに家康の側近として政務を扱った。義直は尾張名古屋藩の藩主となり、正成は幼い義直を支える立場に置かれた。
尾張藩の付家老と犬山城
正成は義直の付家老として尾張藩に入った。付家老とは、将軍家が親藩の大名につけた家老である。元和3年(1617年)には、尾張の北の守りにあたる犬山城(現在の愛知県犬山市)を預かった。以後、成瀬家は代々犬山城主を務めた。
正成は尾張藩の制度づくりに関わり、藩政の基礎を固めた。寛永2年(1625年)1月17日に江戸で死去した。遺言により、日光の家康廟のそばに葬られたとされる。
尾張藩のもう一人の付家老は竹腰正信である。成瀬家と竹腰家は尾張藩の重臣として並び立った。犬山城は成瀬家が明治まで城主を務め、その後も長く成瀬家の個人所有が続いた。
正成は付家老として尾張藩の家臣団の整備や領内の支配の仕組みづくりに関わった。成瀬家の当主は代々「隼人正」を名乗った。
ゆかりの地
- 犬山城(愛知県犬山市):正成以後、成瀬家が代々城主を務めた。天守は国宝
参考にした資料
家康の側近
正成は、徳川家康に仕えた武将で、1567年に生まれました。成瀬家は、三河の松平家に仕えた家でした。
小姓から
正成は、若いころから家康の小姓として仕えました。
小牧・長久手の戦い
1584年の小牧・長久手の戦いで、正成は手柄を立て、家康に認められたとされます。
根来衆を預かる
正成は、紀伊の根来寺の鉄砲衆の流れをくむ「根来衆」を家康から預かりました。この鉄砲隊は「根来組」と呼ばれ、江戸幕府の鉄砲隊となりました。
関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いでも、正成は家康に従って戦いました。
家康の信頼
正成は、家康から厚い信頼を寄せられ、幕府の政治にも関わったとされます。
堺の奉行
正成は、堺の町の奉行を務めたこともあるとされます。
尾張徳川家の付家老
家康は、九男の徳川義直を尾張の名古屋に置きました。正成は、その義直を支える「付家老」となりました。
付家老とは
付家老とは、将軍家が御三家などの大名家に付けた家老のことです。正成は、幕府と尾張徳川家をつなぐ役割を担いました。
名古屋城の築城
名古屋城の築城や城下町づくりのころ、正成は義直を支えて尾張徳川家の基礎を固めました。
犬山城主
1617年、正成は犬山城を与えられました。成瀬家は、こうして犬山城主となりました。
最期
正成は1625年に亡くなりました。
犬山城と成瀬家
犬山城は、その後も成瀬家が代々の城主を務めました。明治時代の後も成瀬家が個人で所有していた時期があり、「日本で最後の個人所有の城」として知られました。
国宝犬山城
犬山城の天守は現存する天守の一つで、国宝に指定されています。木曽川を見下ろす高台に建ち、多くの人々が訪れます。
成瀬家の家格
成瀬家は、尾張徳川家の家老でありながら、大名に近い扱いを受けました。
正成の評価
正成は、家康の側近から尾張徳川家の付家老となり、犬山城主として成瀬家の基礎を築いた人物です。その家が受け継いだ犬山城は、今も国宝として多くの人々に親しまれています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が馬上から前方を指し示し、緑の山並みを背にした姿です。
前方を指し示す姿は、家康から預かった根来組の鉄砲隊を率いた正成をイメージしています。背景の緑の山並みは、のちに成瀬家が治めた尾張の犬山周辺の風景を思わせるものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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