大河『豊臣兄弟!』の登場人物ガイド ― 誰がどの役?(第39回「茶々の本心」)
大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」のラストで、石川数正(演・迫田孝也)は秀長の前にあらわれ、「徳川を捨て、出奔してきた」と告げました。徳川家康の少年時代から仕えてきた筆頭家老の出奔は、徳川家を根底から揺るがす大事件です。この記事では、石川数正の出奔とはどのような出来事だったのか、「出奔」と「寝返り」は何が違うのかを解説し、戦国時代に出奔したほかの武将たちと比べながら、数正の出奔がいかに特別だったのかを見ていきます。
出奔とは:主君の許しを得ずに、仕えていた家や領地を去ること。敵方につく「寝返り」とは重なる部分もありますが、出奔は「家を去る」こと自体を指します。言葉の意味や「逐電」「脱藩」とのちがいは、姉妹サイトの出奔(しゅっぽん)とは?意味と読み方、寝返り・逐電・脱藩とのちがい(日本の歴史ガイド)でくわしく解説しています。
石川数正の出奔 ― 天正13年11月13日に何が起きたのか
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦い。和睦後、数正は徳川の外交の窓口として秀吉との交渉を担う |
| 天正13年(1585)閏8月 | 家康が上田城の真田昌幸を攻めて敗れる(第一次上田合戦) |
| 同年10月 | 秀吉への人質を出すかどうかをめぐり、徳川家中で議論が起こる。家臣の多くは反対したと伝わる |
| 同年11月13日 | 数正、妻子や家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ |
| 同年11月29日 | 天正地震。秀吉の家康攻めの計画が止まる |
| 天正14年(1586)10月 | 家康が上洛し、秀吉に臣従する |
数正は、家康が今川家の人質だったころから仕えた側近で、酒井忠次と並ぶ徳川家の「両家老」の一人でした。岡崎城を預かり、秀吉との交渉ではいつも数正が窓口に立っていました。その数正が、ある夜、家族や家臣、さらに預かっていた人質の少年(小笠原貞慶の子・貞政)まで連れて、岡崎城を去ったのです。
ドラマでは、大坂城で聚楽第の模型や金の詰まった箱を見せられて豊臣の力を知った数正が、浜松で家康に和睦を説きながらも聞き入れられず、戦に傾く家中で孤立していく姿が描かれました。数正自身が出奔の理由を書き残した史料はなく、理由ははっきりしていません。家中での孤立、秀吉からの誘い、徳川を守るための判断など、さまざまな説があります(石川数正はなぜ寝返った?出奔の理由を説ごとに比較)。
数正の出奔は「出奔」か「寝返り」か
数正の行動は、「出奔」とも「寝返り」とも呼ばれます。出奔は、主君の許しなく家や領地を去ること。寝返りは、敵方に味方を替えること。数正の場合は、徳川家を許しなく去ったという点で「出奔」であり、行き先が当時の徳川の対立相手・秀吉だったという点で「寝返り」でもありました。
ドラマの数正が自ら「出奔してきた」と名乗ったのは、象徴的です。「裏切った」のではなく「家を出てきた」。そこには、徳川家を敵に回すつもりはなかった、という数正の思いがにじんでいたのかもしれません。
出奔が徳川家に与えた衝撃
数正は、徳川の軍の編成や城の守り、外交の手の内をすべて知る人物でした。その数正が秀吉方に移ったことで、徳川の秘密は筒抜けになったも同然です。家康は急いで岡崎の守りを固め、それまでの軍の仕組みを、武田家の旧臣たちのやり方を取り入れたものに改めたと伝わります。
しかも数正の出奔は、信濃の小笠原貞慶が徳川を離れて秀吉方につくきっかけにもなりました。徳川家にとっては、一人の家老を失った以上の痛手だったのです。それでも家康は、翌年には上洛して秀吉に臣従します。数正の出奔は、徳川と豊臣の関係が「対立」から「臣従」へ変わる転換点でもありました。
数正のあとを追って ― 出奔した戦国武将一覧
戦国時代には、数正のほかにも主家を去った武将が少なくありません。数正と比べるために、主な武将を一覧にしました。
| 武将 | 去った主君 | 時期 | 行き先 | その後 |
|---|---|---|---|---|
| 石川数正 | 徳川家康 | 天正13年(1585) | 豊臣秀吉 | 大名となり信濃松本城主に。子の代に改易 |
| 本多正信 | 徳川家康 | 永禄6年(1563)ごろ | 諸国を流浪 | のちに帰参し、家康の参謀として重く用いられる |
| 斎藤利三 | 稲葉一鉄 | 天正年間 | 明智光秀 | 光秀の重臣となるが、本能寺の変のあと処刑される |
| 前田慶次(利益) | 前田利家 | 天正18年(1590)ごろ | 京で浪人ののち上杉景勝 | 上杉家に仕え、米沢で晩年を送る |
| 藤堂高虎 | 浅井家ほか | 若いころ | 主君を何度も替え、豊臣秀長へ | のちに伊勢津藩32万石の藩主。家は幕末まで続く |
| 後藤又兵衛(基次) | 黒田長政 | 慶長11年(1606)ごろ | 浪人 | 大坂の陣で豊臣方につき、道明寺の戦いで討死 |
| 塙団右衛門(直之) | 加藤嘉明 | 関ヶ原の戦いのころ | 浪人 | 大坂の陣で豊臣方につき、樫井の戦いで討死 |
| 渡辺勘兵衛(了) | 藤堂高虎 | 大坂の陣のあと | 浪人 | どこにも仕官できないまま晩年を送る |
出奔した武将たちの「その後」は3つに分かれる ― 数正はどの型?
一覧を見比べると、出奔した武将たちのその後は、大きく3つの型に分けられます。
型1:新しい主君のもとで花開いた ― 石川数正・前田慶次・斎藤利三
出奔した先で、新しい主君に重く用いられた武将たちです。石川数正は、徳川の筆頭家老から豊臣の大名となり、のちに信濃松本の城主になりました。前田慶次は叔父・前田利家のもとを去り、上杉景勝と直江兼続に仕えて、関ヶ原のころの長谷堂の戦いなどで武名をあげました。斎藤利三は稲葉一鉄のもとを去って明智光秀の重臣となり、のちにその娘は徳川家光の乳母・春日局となります。
ただし、新天地での成功が家の長い繁栄につながるとは限りませんでした。数正の家は子の代に改易され、利三は本能寺の変に加わったことで命を落としています。
型2:去った家に戻って返り咲いた ― 本多正信・藤堂高虎
本多正信は、永禄6年(1563)ごろの三河一向一揆で一揆方につき、家康のもとを去って諸国を流浪しました。しかしのちに帰参を許され、家康の最も信頼する参謀として江戸幕府の土台づくりを支えます。一度主君に背いた家臣が、のちに最側近になるという、戦国でもまれな例です。
藤堂高虎は、若いころに浅井家をはじめいくつもの家を渡り歩いた末、豊臣秀長のもとで才能を開花させました。秀長と養子の秀保が亡くなると一度は出家しますが、秀吉に呼び戻され、のちには家康に重用されて伊勢津藩の藩主となり、その家は幕末まで続きました。主君を替えることを恐れず、最後に家を残した「出奔上手」といえるかもしれません。
型3:「奉公構」で行き場を失った ― 後藤又兵衛・塙団右衛門・渡辺勘兵衛
出奔には大きな危険もありました。それが「奉公構(ほうこうがまい)」です。家臣に去られた元の主君が、ほかの大名に「この者を召し抱えないように」と通告するもので、これを出されると、どれほどの名将でも新しい仕官先を見つけるのが難しくなりました。
後藤又兵衛は黒田長政と対立して黒田家を去り、塙団右衛門は加藤嘉明のもとを去りましたが、どちらも元の主君から奉公構を出され、浪人生活を強いられます。行き場を失った二人がたどり着いたのが、豊臣家の大坂城でした。二人は大坂の陣で豊臣方として奮戦し、ともに討死します。藤堂高虎のもとを去った渡辺勘兵衛も奉公構を受け、どこにも仕えることなく晩年を送りました。
石川数正の出奔はなぜ特別だったのか
こうして並べると、石川数正の出奔の特別さが見えてきます。多くの出奔は、主君との不和や戦場での行き違いがきっかけでした。ところが数正は、徳川家の外交を一手に担う筆頭家老でありながら、家族や家臣を連れて、天下人となりつつあった秀吉のもとへ移りました。徳川の軍の仕組みや城の守りを知り尽くした重臣が敵方へ移ったことで、家康は軍制を改めなければならないほどの打撃を受けたのです。
一方で、数正は奉公構に苦しむこともなく、大名として迎えられました。去った先が、どの大名も逆らえない秀吉だったからです。出奔の理由について、くわしくは石川数正はなぜ寝返った?出奔の理由を説ごとに比較をご覧ください。
よくある質問
Q. 石川数正が出奔したのはいつですか?
A. 天正13年(1585)11月13日です。妻子や家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ移りました。
Q. 出奔と寝返りはどう違いますか?
A. 出奔は主君の許しなく家や領地を去ること、寝返りは敵方に味方を替えることです。石川数正のように、出奔して敵方へ移った場合は、両方にあてはまります。
Q. 奉公構とは何ですか?
A. 家臣に去られた元の主君が、ほかの大名にその者を召し抱えないよう求める通告です。出された武将は、新しい仕官先を見つけにくくなりました。
Q. 出奔したあと、元の主君のもとに戻った武将はいますか?
A. 本多正信が代表例です。三河一向一揆で家康に背いて去りましたが、のちに帰参し、家康の参謀となりました。
まとめ
石川数正は天正13年(1585)11月13日、家族や家臣を連れて岡崎城を去り、秀吉のもとへ移りました。徳川の筆頭家老の出奔は、家康に軍制の改革を迫るほどの衝撃を与え、徳川と豊臣の関係を変える転換点となります。戦国時代には、新天地で花開いた者、元の家に戻った者、奉公構で行き場を失った者と、さまざまな出奔の形がありましたが、天下人のもとへ大名として迎えられた数正の出奔は、その中でもとりわけ大きな意味を持つものでした。第39回のラストで数正が口にした「出奔」という一言には、そうした重みが込められていたのです。
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