大久保忠世 | 徳川家康の譜代重臣、初代小田原城主

大久保忠世 イラスト

おおくぼ ただよ

地域三河国(愛知県岡崎市)、のち相模国(神奈川県小田原市)
所属勢力・属性徳川家臣(譜代)
大名家徳川氏
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ忠義に厚い歴戦の部将

大久保忠世は、徳川家康を若いころから支えた三河以来の重臣である。三方ヶ原や長篠の戦いで活躍し、遠江の二俣城を任された。天正18年(1590)、家康の関東入りにともない小田原城主となり、4万5000石を領した。

目次

三河の大久保一族

大久保氏は、下野の宇都宮氏の分かれとされる一族で、はじめは宇津氏などと名のった。三河国の上和田(愛知県岡崎市)を本拠とし、松平氏(のちの徳川氏)に代々仕えた。忠世の父忠員の代に、大久保と名のるようになったとされる。

忠世は天文元年(1532)に、忠員の長男として生まれた。通称は新十郎、のちに七郎右衛門である。弟には、『三河物語』を書いたことで知られる大久保忠教(彦左衛門)がいる。

数々の合戦での活躍

忠世は、家康の父松平広忠のころから仕えた。弘治元年(1555)の蟹江城攻めでは、父や弟、伯父とともに「蟹江七本槍」の一人に数えられた。7人のうち4人が大久保一族で、一族の強さを示す話として伝わる。

元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田軍に大敗したとき、忠世は一隊を率いて夜の闇にまぎれて鉄砲を撃ちかけ、追ってきた敵を混乱させたと伝わる。天正3年(1575)の長篠の戦いでも手柄を立て、織田信長にほめられたという。同じ年、武田方から取り戻した遠江の二俣城を任された。

信濃の奉行から小田原城主へ

天正10年(1582)の本能寺の変のあと、家康が信濃に勢力を広げると、忠世は信濃の惣奉行として小諸城に入った。天正13年(1585)には真田昌幸の上田城を攻めたが、敗れている(第一次上田合戦)。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は関東に移された。忠世は小田原城を与えられ、4万5000石を領した。秀吉に「豊臣と徳川が争ったらどうするか」と聞かれ、「徳川のために戦う」とはっきり答えて秀吉を苦笑させたという逸話も残る。翌年には菩提寺の大久寺を建てた。文禄3年(1594)9月15日、63歳で亡くなった。

子孫と小田原藩

家は嫡男の忠隣が継いだ。忠隣は2代将軍秀忠の老中として力を持ったが、慶長19年(1614)に改易された。

その後、一族の大久保忠朝が老中となり、下総の佐倉などを経て小田原城主に返り咲いた。石高は10万3000石、のちに11万3000石となった。大久保家はその後も老中などの重い役を務め、幕末まで小田原藩主として続いた。明治維新後は子爵となった。

ゆかりの地

  • 大久寺(神奈川県小田原市城山):忠世が天正19年(1591)に建てた大久保家の菩提寺。忠世・忠隣らの墓がある
  • 小田原城跡(神奈川県小田原市):天正18年(1590)から忠世が城主を務めた城

参考にした資料

大久保忠世とは

大久保忠世は、徳川家康に仕えた三河以来の重臣です。大久保忠教(彦左衛門)の兄にあたります。

三方ヶ原の戦い

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで家康が大敗した夜、忠世は武田軍の陣に夜襲をかけて敵を驚かせたと伝えられます。

二俣城

忠世は、遠江の二俣城を任され、武田家との戦いの最前線を守りました。

評価

忠世は、三河武士の代表的な一人として家康を支え、小田原城主となった重臣です。

このイラストについて

このイラストは、陣の柵を背に立つ忠世を描いています。

厳しい表情と使い込まれた甲冑で、数々の戦いをくぐり抜けた三河武士の姿を表しました。

曇り空の下の陣は、武田家との戦いの最前線をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

徳川家

三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。

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