ほんだ ただまさ
| 地域 | 伊勢国(三重県)・播磨国(兵庫県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣・譜代大名 |
| 大名家 | 本多氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 城と町を整えた譜代大名 |
本多忠政は、徳川四天王の一人・本多忠勝の長男である。関ケ原の戦いや大坂の陣に加わり、伊勢桑名藩主をへて播磨姫路藩15万石の藩主となった。姫路城を修築し、西の丸を整えたことで知られる。
本多忠勝の長男として
忠政は天正3年(1575)に生まれた。父は徳川家康に仕えた猛将・本多忠勝である。通称は平八郎で、美濃守を名乗った。
本多氏は古くから徳川家(松平家)に仕えた譜代の家である。忠政も若いころから家康に仕えた。妻は家康の孫にあたる熊姫(妙高院)で、本多家は徳川家と深く結びついていた。
父の忠勝は、酒井忠次・榊原康政・井伊直政とならぶ徳川四天王の一人として知られる。忠政はその跡取りとして、徳川家の中で重い立場にあった。
関ケ原から大坂の陣へ
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、忠政は徳川秀忠の軍に従った。秀忠の軍は中山道を進み、信濃の上田城を攻めた。
慶長15年(1610)、忠政は伊勢桑名藩主となった。父忠勝のあとを継いだのである。その後、大坂冬の陣・夏の陣に出陣して活躍した。
姫路藩15万石と姫路城
家康の死後、元和3年(1617)に忠政は播磨の姫路へ移された。それまで姫路を治めていた池田氏に代わり、15万石余りの藩主となったのである。
忠政は姫路城を修築した。このとき西の丸を整え、長男の忠刻とその妻千姫の住まいとした。千姫は将軍秀忠の娘で、もとは豊臣秀頼の妻であった。西の丸に残る長い廊下は「百間廊下」と呼ばれ、ほかの城には見られない独特のものとされる。
城下の整備にも手をつけた。姫路の船場川は、忠政の代に改修されたとされる。また、娘婿の小笠原忠真が明石城を築いたとき、忠政が縄張り(城の設計)をしたと伝わる。
忠政が入る前の姫路は、池田光政が治めていた。光政は鳥取へ移され、そのあとに桑名から忠政が入ったのである。家康の孫を妻とする忠政が、こうして播磨の大きな城をまかされた。
忠政の死とその後の本多家
忠政は寛永8年(1631)8月10日に没した。57歳であった。長男の忠刻は先に亡くなっていたため、家は次男の政朝が継いだ。
政朝も寛永15年(1638)に亡くなり、本多家はのちに姫路を離れることになる。それでも、忠政が整えた姫路城の西の丸は、今も城の大切な一部として残っている。
ゆかりの地
- 姫路城(兵庫県姫路市):忠政が藩主として修築し、西の丸を整えた城
- 桑名城跡(三重県桑名市):父忠勝と忠政が藩主をつとめた桑名藩の城の跡
参考にした資料
本多忠政とは
本多忠政は、徳川四天王の一人・本多忠勝の長男です。父の跡を継ぎ、のちに姫路城主となりました。
妻は家康の孫娘
忠政の妻は、家康の長男・松平信康の娘でした。本多家は、徳川家と深く結びついていました。
大坂の陣
忠政は大坂の陣に出陣し、夏の陣では道明寺のあたりで戦ったとされます。
姫路城
元和3年(1617年)、忠政は姫路に移り、十五万石の大名となりました。子の忠刻の妻には、秀忠の娘・千姫が迎えられました。
評価
忠政は、名将・本多忠勝の跡を継ぎ、姫路藩主として本多家を大きな大名家に育てた人物です。
このイラストについて
このイラストは、白い天守を背に立つ忠政を描いています。
落ち着いた顔つきと甲冑姿で、名将の家を継いだ当主の重みを表しました。
背後の天守は、忠政が城主を務めた姫路城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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