きのした いえさだ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣一門 |
| 大名家 | 豊臣一門 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 高級具足 |
| 武将タイプ | 豊臣親族・堅実 |
北政所(おね)の兄。秀吉に重用されて姫路城主となり、関ヶ原の戦いでは妹・高台院の守護にあたった。戦後は備中足守2万5000石に移って足守藩を開いた。
目次
北政所の兄
木下家定は天文12年(1543)、尾張に生まれた。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の兄である。父は杉原定利とされ、家定ももとは杉原を名のった。妹が秀吉に嫁いだことから、木下の姓を称したと伝わる。
家定は秀吉に重く用いられた。天正13年(1585)ごろ姫路城に入ったとされ、文禄4年(1595)には播磨姫路城主となった。
関ヶ原と備中足守
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、家定は妹・高台院の守護にあたった。東西どちらの軍にも加わらなかったとされる。
戦後は徳川家康に属し、慶長6年(1601)に備中足守(現在の岡山市北区)2万5000石に移って足守藩を開いた。姫路には池田輝政が入った。家定自身は足守には下らず、京都で暮らしたとされる。
慶長13年(1608)8月26日、家定は66歳で死去した。京都・建仁寺の塔頭常光院に葬られたと伝わる。
子どもたちと木下家のゆくえ
家定の子には、歌人として知られる木下長嘯子(勝俊)、足守藩を継いだ木下利房、豊後日出藩を開いた木下延俊がいる。関ヶ原で東軍についた小早川秀秋も家定の子である。
家定の死後、遺領の相続をめぐって高台院の意向と家康の考えが食い違い、足守の領地は一時失われたとされる。のちに利房が足守藩主に返り咲き、木下家は江戸時代を通じて足守を治めた。
ゆかりの地
- 姫路城(姫路市):文禄4年(1595)に家定が城主となった
- 足守(岡山市北区):慶長6年(1601)に家定が封じられ、足守藩木下家の地となった
- 建仁寺常光院(京都市東山区):家定が葬られたと伝わる



















