すがぬま さだみつ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 野田菅沼氏 |
| 大名家 | 野田菅沼氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ割り丸た |
| 主武器 | 太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 不屈・三河武士 |
野田城主。武田信玄の大軍による野田城攻防戦において極限の籠城戦を展開し、信玄を狙撃した伝説に関わる。
三河の野田城主
定盈は、三河の野田城を本拠とした菅沼家の当主です。1542年に生まれました。
三河の菅沼家
三河の東部には、菅沼家・奥平家などの国衆がいました。菅沼家にはいくつかの家があり、定盈の家は野田菅沼家と呼ばれます。
今川家から家康へ
定盈ははじめ今川家に従っていましたが、1560年の桶狭間の戦いの後、松平元康(のちの徳川家康)に従いました。
今川家の反撃
家康に従ったことで、定盈の野田城は今川家の攻撃を受けたこともありました。
武田信玄の侵攻
1572年、武田信玄が大軍を率いて遠江・三河に攻め込みました。
野田城の籠城
1573年、信玄は野田城を囲みました。定盈は、わずかな兵で城に立てこもり、およそ1か月にわたって武田の大軍に抵抗しました。
水の手を断たれる
武田軍は、城の水の手を断つなどして攻め立てました。定盈は、ついに城を明け渡しました。
笛の音の伝承
野田城の籠城中、城内から毎晩聞こえる笛の音に聞き入っていた信玄が、鉄砲で撃たれたという伝承が残っています。ただし、これは後世の言い伝えで、確かなことはわかっていません。
信玄の死
野田城攻めの後、信玄は病が重くなり、甲斐に引き揚げる途中で亡くなりました。
人質交換で帰還
捕らえられた定盈は、のちに人質の交換によって徳川家に戻ることができました。
野田城を取り戻す
その後、定盈は野田城を取り戻し、再び徳川家のために戦いました。
長篠の戦い
1575年の長篠の戦いにも、定盈は徳川家の一員として加わったとされます。
関東への移封
1590年、家康が関東に移ると、定盈も関東に所領を与えられました。
最期
定盈は1604年に亡くなりました。
菅沼家のその後
定盈の子孫は、江戸時代に大名や旗本として続きました。
野田城跡
野田城跡は、現在の愛知県新城市にあり、豊川のほとりの崖の上に城の跡が残されています。
信玄の最後の戦い
野田城の戦いは、武田信玄が生涯の最後に戦った城攻めとして知られます。信玄は、この後まもなく亡くなりました。
武田家の衰退
信玄の死後、武田家は子の勝頼が継ぎましたが、1575年の長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、次第に衰えていきました。
定盈の評価
定盈は、武田信玄の大軍を相手に野田城で粘り強く戦った武将です。その籠城は、信玄の最後の戦いの一つとして、今も語り継がれています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が槍を手にし、木の柵と物見櫓のある城を背にした姿です。
背景の柵と物見櫓は、定盈が武田信玄の大軍を相手に立てこもった三河の野田城をイメージしています。槍を手に立つ姿は、わずかな兵で1か月にわたって城を守り抜いた定盈の粘り強さを表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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