内藤隆春 | 内藤興盛の子。大内家滅亡後は毛利元就に仕え、毛利家の長門国統治の要として活躍した

内藤隆春

ないとう たかはる

地域中国
所属勢力・属性大内・毛利系
大名家大内
家紋下り藤
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ不屈・転身

内藤興盛の子。大内家滅亡後は毛利元就に仕え、毛利家の長門国統治の要として活躍した。

目次

内藤興盛の子

隆春は、周防・長門を治めた大内家の重臣・内藤興盛の子です。

長門守護代の家

内藤家は、長門の守護代を務める家柄で、大内家の中でも屈指の重臣の家でした。

大寧寺の変

1551年、大内家の当主・大内義隆が、家臣の陶晴賢に攻められて自害しました。これを大寧寺の変と呼びます。

厳島の戦い

その陶晴賢も、1555年の厳島の戦いで毛利元就に敗れて自害しました。

大内家の滅亡

1557年、毛利元就は周防・長門に攻め込み、大内家は滅びました。

毛利家に仕える

大内家の滅亡の後、隆春は毛利元就に仕えました。

毛利家との縁

隆春の姉妹は、毛利元就の嫡男・隆元に嫁ぎ、輝元を産みました。内藤家は、毛利家と深い縁で結ばれていました。

輝元の叔父

つまり隆春は、毛利輝元の叔父にあたります。

長門の統治

隆春は、毛利家の長門の統治の要として活躍しました。

大内輝弘の乱

1569年、大内家の一族の大内輝弘が周防に攻め込んだときも、毛利家は防長の守りを固めて乱を鎮めました。

長門の国衆

長門の国衆たちにとって、もとの守護代の家である内藤家は大きな存在でした。隆春が毛利家に仕えたことは、長門の支配を安定させる助けとなりました。

最期

隆春は1600年に亡くなったとされます。

内藤家のその後

内藤家は、その後も長州藩の重臣の家として続きました。

転身の時代

名門大内家の重臣の家に生まれながら、主家の滅亡の後に毛利家に仕えた隆春の歩みは、戦国時代の大きな転換を物語っています。

守護代とは

守護代は、守護に代わって国の政治を担う役職です。内藤家は、大内家に代わって長門を治める立場にありました。

長門という国

長門は、現在の山口県の西部にあたる国で、九州との海の通り道である関門海峡に面していました。

毛利家の防長支配

毛利家は、周防・長門を手に入れた後、隆春のような旧大内家の重臣を取り込むことで、支配を安定させていきました。

大内義長

大内家の最後の当主・大内義長は、陶晴賢に迎えられた大友家出身の人物で、毛利元就の攻撃によって長門で自害しました。

内藤家の家紋

内藤家は、大内家の重臣の家として、長く長門に根を張った家でした。

隆春の評価

隆春は、大内家の重臣・内藤興盛の子として生まれ、大内家の滅亡の後は毛利家に仕えて長門の統治を支えた人物です。輝元の叔父として、毛利家と深く結びついていました。

このイラストについて

甲冑姿の武将が、城と旗を背にした姿です。

背景の城と旗は、隆春が統治を支えた長門の地と、主家が大内家から毛利家へと移り変わった時代をイメージしています。落ち着いた表情は、転身を経て長門の統治の要となった隆春を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

大内家

周防・長門を本拠とした守護大名で、百済の王族の子孫と称した。大内義興は前将軍足利義稙を擁して上洛し、管領代としておよそ10年にわたって京都の政治を動かした。

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主家

大内義隆大内義興

家臣団

三浦房清内藤興盛冷泉隆豊吉見正頼問田隆盛弘中隆包江良房栄陶晴賢陶興房飯田興秀
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