いたくら しげまさ
| 地域 | 関東・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 九曜 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・殉職 |
板倉勝重の次男。島原の乱において幕府上達の総大将として派遣されるも、焦りから原城攻めで戦死した悲劇の将。
板倉勝重の次男
重昌は、京都所司代として名高い板倉勝重の次男として生まれました。兄の重宗も京都所司代を務めています。
将軍の側近
重昌は二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、側近として重く用いられました。
大坂の陣
大坂の陣の際、重昌は徳川方と豊臣方の交渉の使者を務めたとされます。
三河深溝の大名
重昌は三河の深溝に所領を与えられ、大名となりました。
島原の乱の勃発
1637年、九州の島原と天草で、重い年貢やキリシタンへの弾圧に苦しむ人々が一揆を起こしました。これが島原の乱です。
幕府の上使
幕府は重昌を上使(総大将)として島原に派遣しました。重昌は九州の大名たちを率いて一揆勢を鎮めることを命じられました。
原城の攻防
一揆勢は島原半島の原城跡に立てこもりました。重昌は九州の大名たちの軍を指揮して攻撃しましたが、城は容易に落ちませんでした。
大名を率いる難しさ
重昌は小さな大名だったため、自分より石高の大きな九州の大名たちをまとめるのに苦労したといわれます。
後任の派遣
攻撃がうまく進まない中、幕府は老中の松平信綱を新たに派遣することを決めました。
元日の総攻撃
後任が来る前に城を落とそうと、重昌は1638年の元日に総攻撃をかけました。
戦死
重昌は自ら先頭に立って戦いましたが、鉄砲に撃たれて戦死しました。
乱の終結
その後、松平信綱の指揮のもと、原城は兵糧攻めの末に落とされ、島原の乱は終わりました。
悲劇の総大将
重昌の死は、江戸幕府の初期に起きた最大の反乱の中での悲劇として語り継がれています。
島原の乱の背景
島原と天草では、領主による重い年貢の取り立てや、キリシタンへの厳しい弾圧が続いていました。人々の不満が爆発し、天草四郎を中心に大規模な一揆へと発展したのです。
兄重宗との対比
兄の重宗が京都所司代として長く京の町を治めたのに対し、弟の重昌は戦場で命を落としました。板倉家の兄弟は、それぞれ異なる形で幕府に尽くしたのです。
父板倉勝重
重昌の父の勝重は、京都所司代として名奉行と称えられた人物でした。
兄板倉重宗
重昌の兄の重宗も、父の跡を継いで京都所司代を務めました。
原城
島原の乱で一揆勢が立てこもった原城は、現在の長崎県南島原市にあり、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとなっています。
松平信綱
重昌の死の後、幕府は老中の松平信綱を送り、原城を兵糧攻めにして乱を鎮めました。
重昌の評価
重昌は、島原の乱の総大将として原城を攻め、自ら先頭に立って戦死した人物です。責任を果たそうとしたその最期は、多くの人の記憶に残っています。
このイラストについて
兜をかぶった武将が、柵と旗、炎の上がる陣を背にした姿です。
背景の柵と炎は、重昌が総大将として攻めた島原の乱の原城の攻防をイメージしています。厳しい表情は、困難な戦いの中で責任を背負い、最後は先頭に立って戦った重昌の覚悟を表したものです。顔立ちや兜の紋は想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
徳川家の歴史と武将一覧を見る →

































































































