いたくら しげまさ
| 地域 | 関東・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 九曜 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・殉職 |
板倉勝重の次男。島原の乱において幕府上達の総大将として派遣されるも、焦りから原城攻めで戦死した悲劇の将。
目次
島原の乱の総大将・板倉重昌
板倉重昌(いたくら しげまさ)は、名奉行として知られる板倉勝重の次男で、江戸幕府に仕えた武将です。島原の乱の鎮圧軍の総大将として派遣されましたが、原城攻めで戦死した悲劇の将として知られます。
島原の乱
寛永14年(1637年)、キリシタンへの弾圧と重い年貢に苦しんだ島原・天草の農民らが、天草四郎を旗頭に一斉に蜂起しました。これが島原の乱です。一揆勢は、廃城となっていた原城に立て籠もり、頑強に抵抗します。
総大将としての苦戦
幕府は、板倉重昌を鎮圧軍の総大将として派遣しました。しかし、動員された九州の諸大名は、石高では格上の外様大名も多く、必ずしも板倉重昌の指揮に従おうとしませんでした。堅固な原城を前に、幕府軍は攻めあぐねます。
焦りの中の戦死
幕府がさらに知恵伊豆こと松平信綱を新たな総大将として派遣すると知った板倉重昌は、その到着前に手柄を立てようと焦り、無理な原城への総攻撃を敢行しました。しかしこれは失敗し、板倉重昌自身も銃弾に倒れて戦死してしまいます。板倉重昌の生涯は、島原の乱の総大将として苦しい立場に置かれ、焦りのなかに散った、その悲劇を今に伝えています。










































































