山田重辰 | 松平忠輝の重臣。忠輝の行状を家康に訴え切腹

やまだ しげたつ

地域甲信越
所属勢力・属性松平忠輝家臣
大名家松平忠輝
家紋―
主武器大槍
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ勇猛・直言

山田重辰は徳川家康の六男・松平忠輝の重臣で、信濃松代城代を務めたとされる。慶長14年(1609)、皆川広照・松平清直とともに忠輝の行状を家康に訴えた。家康は忠輝の言い分を採り、重辰は切腹を命じられたと伝わる。

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松平忠輝の家臣団

山田重辰(やまだ しげたつ)は安土桃山時代から江戸時代初期の武士である。生年は不明。徳川家康の六男・松平忠輝に仕えた。

忠輝は慶長8年(1603)に信濃川中島14万石を与えられた。若い忠輝を補佐するため、皆川広照らが付けられた。重辰もこの家臣団の重臣で、松代城代として1万石を領したとされる。皆川広照・松平清直とともに、忠輝の三臣に数えられる。

付家老(つけがろう)とは、将軍家や大名家から若い主君のもとへ補佐役として付けられた重臣を指す。広照はその代表的な例である。重辰らは主君の行状に責任を負う立場にあった。

忠輝の行状を訴える

忠輝は気性が激しく、重臣たちの諫言を聞き入れなかったとされる。慶長14年(1609)、広照・清直・重辰は忠輝の行状を駿府の家康に訴えた。

これに対し、忠輝も駿府へ赴き、老臣たちが政務を独占していると反論した。家康は忠輝の言い分を採り、広照らは改易された。重辰は訴えの責任を問われ、切腹したと伝わる。

翌慶長15年(1610)、忠輝は越後福島へ移り、のちに高田城を居城とした。元和元年(1615)の大坂夏の陣での不始末などを問われ、元和2年(1616)に改易されている。

この一件は、若い主君と付けられた老臣の対立が、将軍家の判断で主君側の勝ちとなった例である。忠輝の家中ではその後も重臣の交代が続いた。

ゆかりの地

  • 松代城跡(長野県長野市):重辰が城代を務めたとされる城。当時は待城(海津城)と呼ばれた。

参考にした資料

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