戦国屈指の両雄が唯一交えた一戦
天正十二年(1584年)、後に天下人となる羽柴秀吉と、江戸幕府を開いて二百六十余年の泰平を築く徳川家康という二人の英傑が、生涯でただ一度だけ正面から干戈を交えた合戦こそが、尾張から美濃一帯を主戦場とした小牧・長久手の戦いである。
織田家の後継をめぐる争いから発したこの合戦は、局地戦においては家康が目の覚めるような鮮やかな勝利を収めながらも、大局においては秀吉が政治的な優位を確立するという、勝敗が複雑に交錯する類まれな結末をたどった一戦であった。
局地戦の戦術において勝ちを収めた家康と、大局の戦略において勝ちを収めた秀吉という鮮烈な対比は、後の天下分け目の関ヶ原の戦いにまで連なる二人の長い因縁の出発点として、今日もなお実に多くの歴史愛好家の関心を惹きつけてやまないのである。
本能寺の変から始まる秀吉の台頭
この合戦を正しく理解するためには、天正十年(1582年)六月に天下統一を目前としていた織田信長が、重臣である明智光秀の突然の謀反によって京の本能寺で横死した、いわゆる本能寺の変までさかのぼって全体の流れを押さえておく必要がある。
中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉は、信長横死の急報に接するや否や毛利方と即座に講和を結び、世に中国大返しと称される驚異的な速さの強行軍で京へと取って返し、山崎の戦いで光秀を討ち果たして主君の仇を鮮やかに報じたのである。
この主君の仇討ちという他の誰も成し得なかった大功によって、秀吉は数多くいた織田家の宿老たちのなかにあって一躍抜きん出た存在となり、以後の織田家の政局を主導していくための揺るぎない足がかりを、ここに一挙に築き上げたのである。
清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て
信長と嫡男信忠をともに失った織田家では、同年六月に尾張の清洲城において後継者と遺領の配分を協議する清洲会議が開かれ、秀吉は信忠の遺児である幼い三法師を巧みに擁立して、宿老筆頭であった柴田勝家との主導権争いを有利に導いていった。
両者の対立はやがて避けがたい武力衝突へと発展し、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉は勝家を打ち破って越前北庄城へと追い詰めて自刃させ、信長の後継者たる地位を、実力によって内外に強く印象づけたのである。
この一連の輝かしい勝利によって秀吉の権勢はいよいよ盛んとなり、天下の政治の中心たる大坂の地に壮麗な城の築造を開始するなど、もはや一家臣の域をはるかに超えた天下人然たる歩みを、誰の目にも明らかな形で進めていったのである。
織田信雄が抱いた深い不満
こうして織田家中で頭一つ抜け出した秀吉であったが、その急速にすぎる台頭を快く思わぬ者も家中には少なくなく、なかでも信長の次男でありながら三法師の後見という不本意な立場に甘んじさせられた織田信雄は、日ごとに深い不満を抱え込んでいた。
秀吉は主家の一家臣という本来の立場を超えて、あたかも天下人のごとく諸大名の上に君臨する振る舞いをはじめており、信雄の目にはそれが亡き父信長の遺産をそっくり横領されるかのように映り、両者の溝は日を追うごとに深まっていった。
自らこそが信長の正統な後継者であるべきだと固く信じる信雄にとって、もとは一介の旧臣にすぎない秀吉に頭を垂れることは到底受け入れがたく、その根深い対立はもはや当人同士の話し合いでは収拾しがたい抜き差しならぬ段階へと至ったのである。
徳川家康との同盟成立
秀吉との全面対決を覚悟した信雄が頼みとしたのが、三河・遠江・駿河の三国に強大な勢力を築いていた徳川家康であり、家康はかつて信長と二十年余にわたって清洲同盟を結んだ旧誼を背景に、信雄からの救援要請に応じてこれと手を結んだのである。
家康にとっても、際限なく膨張を続ける秀吉の勢力はやがて自らの領国をも脅かしかねない危険な存在であり、信雄という織田家の正統を担ぐ大義名分を得られる今こそ、その勢いを抑え込む絶好の機会であると判断したものと考えられている。
こうして織田信雄と徳川家康の連合軍が形づくられ、これに対して秀吉がただちに大軍を催すという対決の構図が定まり、旧織田家の莫大な遺産をめぐる天下の主導権争いは、いよいよ本格的な武力による決着の段階へと突き進んでいったのである。
開戦の引き金となった家老誅殺
開戦の直接の引き金となったのは、天正十二年(1584年)三月に織田信雄が、自らに仕える三人の宿老を、秀吉に内通して謀反を企てているとの疑いによって伊勢長島城で誅殺した事件であり、これは秀吉に対する事実上の宣戦布告に等しかった。
これを織田家への明白な挑発と受け取った秀吉はただちに大軍の動員を号令し、信雄と家康の連合軍もまた迎撃の態勢を急ぎ整え、ここに尾張と美濃の広い一帯を主戦場とする大規模な軍事衝突の火蓋が、ついに音を立てて切って落とされたのである。
もっとも、この家老誅殺の裏には、両者の対立を決定的なものと化して開戦の口実を得ようとする秀吉の巧みな調略があらかじめ働いていたとする見方も根強く残されており、この事件の真相をめぐっては今日なお数多くの諸説が唱えられているのである。
小牧山での対陣と付城戦
緒戦において家康は誰よりも素早く行動を起こし、信長がかつて居城とした小牧山城にいち早く入って本陣を構え、その周囲に幾重もの土塁や砦を築いて堅固な防御線を張り巡らせ、大軍を擁する秀吉方を迎え撃つ万全の構えを整えたのである。
一方の秀吉はおよそ十万に及ぶとも伝わる大軍を率いて尾張へと進出し、要衝の犬山城を確保したうえで楽田に本陣を据えたが、両軍はいくつもの付城や砦を築いて小牧山を挟んで対峙したまま、容易には動かず戦線は次第に膠着していった。
堅陣に籠もって守りを固める家康を、力ずくの攻撃によって崩すことの困難さを悟った秀吉は、いたずらに兵を損なうだけの正面からの力攻めを慎重に避けつつ、この重苦しい膠着の局面を打開するための新たな一手を、水面下で模索しはじめたのである。
池田恒興が献策した三河中入り
この膠着した戦況を一挙に打開すべく秀吉方から献策されたのが、世に三河中入りと呼ばれる大胆きわまる迂回奇襲作戦であり、これを秀吉に強く進言したのは、家康の内情に通じた美濃大垣城主の池田恒興であったと今日に伝わっている。
その狙いは、小牧山で対峙する家康の主力をその場に釘付けにしたまま、別働隊が手薄となった家康の本国三河へ密かに侵入して背後を突き、その留守を一気に襲うことで敵を大いに混乱させ、戦局を根本から転換させようとするものであった。
当初この危うい策に慎重であった秀吉も、恒興やその娘婿である猛将森長可らの強い主張に押される形で、甥にあたる若き羽柴秀次を総大将に据えたうえで、二万を超えるとも伝わる大規模な別働隊を編成し、ついにこれを許可するに至ったと伝えられている。
長久手の戦いにおける家康の反撃
しかし、この中入り作戦の不穏な動きは、領内に張り巡らせた家康の周到な情報網によって早くも察知されるところとなり、家康は好機到来と見るや、自ら精鋭を率いて夜陰に乗じ密かに小牧山を発ち、別働隊の追撃へと大胆に転じたのである。
天正十二年(1584年)四月九日、長久手の一帯において両軍はついに激突し、隊列が長く伸びきって連携を欠いた秀吉方の別働隊は、待ち構えていた家康の統制のとれた猛攻の前に各所で分断されて浮き足立ち、たちまちのうちに総崩れの様相を呈した。
この戦いにおいて献策者であった池田恒興と、猛将として鳴らしたその娘婿の森長可がともに討ち死にを遂げ、別働隊は総大将の秀次をかろうじて逃したもののおびただしい数の死傷者を出し、この長久手の局地戦はまさしく家康方の圧倒的な完勝に終わったのである。
秀吉を支えた弟豊臣秀長の参陣
この一連の戦いには、秀吉の実弟である豊臣秀長も秀吉方の主力の一員として参陣しており、兄を支える補佐役として軍務の重要な一翼をしっかりと担っていた点は、大河ドラマ「豊臣兄弟!」に関心を寄せる向きにとっても見逃せない事実である。
秀長は温厚篤実な人柄と堅実な統率力によって、しばしば激情に走りがちな兄秀吉をつねに冷静な立場から陰で支え続けた人物として知られ、後の豊臣政権の確立においても、その存在はまさに天下の屋台骨を支える要石であったと高く評価されている。
戦場での華々しい武功こそ兄に譲ったものの、大軍の統率と後方の安定という地味ではあるが不可欠な役割を終始黙々と果たし続けた秀長の姿は、この合戦における豊臣方の陣容を語るうえで、決して欠かすことのできない重要な一面であると言えよう。
膠着を経て織田信雄との単独講和へ
長久手での思わぬ敗報に接した秀吉は、なおも大軍を動かして家康との決戦を挑もうとしたが、家康は再び小牧山の堅陣へと退いて守りを固めたため、両軍は決定的な会戦に至らぬまま、戦線はふたたび長い膠着状態へと逆戻りしてしまった。
戦場での正面からの決着は容易でないと見て取った秀吉は、自らの最も得意とする調略と外交へと争いの舞台を巧みに移し、まずは敵方の大義名分そのものである織田信雄に狙いを定めて、水面下で粘り強く単独講和を働きかけていったのである。
もとより戦意に乏しく秀吉の絶え間ない圧力に耐えかねた信雄は、伊勢や伊賀の一部を割譲するといった条件と引き換えにその巧みな誘いに乗り、同年十一月、盟友たる家康に何ら相談することもなく独断で秀吉と和睦を結んでしまったのである。
次男於義丸を人質に出した和睦
信雄が単独で講和を結んだことにより、あくまで織田家を奉じて戦っていた家康は戦いを続けるための大義名分を根こそぎ失い、もはや秀吉と干戈を交える名目を欠いた以上、やむなく自らも矛を収めて和睦へと踏み切らざるを得なくなったのである。
この和睦に際して家康は、自らの次男である於義丸、すなわち後の結城秀康を人質として大坂の秀吉のもとへ差し出しており、名目上は秀吉の養子という体裁こそ取られたものの、その実は徳川家が豊臣家に頭を下げた明白な証にほかならなかった。
戦場ではついに一歩も引かなかった家康が、こうして我が子を人質に出してまで和を請う形をとらざるを得なかったところに、武力の勝敗とはまったく別の次元で進行する秀吉の老練な政治力の恐るべき一面が、はっきりと表れているのである。
戦術の家康、戦略の秀吉という意義
小牧・長久手の戦いは、長久手での鮮やかな勝利によって戦術の面では家康が明らかに優っていたものの、信雄と家康の双方を屈服させて戦争目的を達した戦略の面では秀吉が完勝したという、二重の評価をあわせ持つ稀有な合戦である。
この戦いを通じて家康の武名は天下に大きく轟いた一方で、秀吉は武力ではなく巧みな政治力によって家康を実質的に従える端緒をつかみ、やがて天正十四年(1586年)には家康をみずから上洛させて正式に臣従させるに至るのである。
その後、天下統一へと突き進む秀吉のもとで家康は有力大名として遇され、小田原征伐を経て関東へと移封されるが、秀吉の死後にはふたたびその野心を現し、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いへと連なる遠大な伏線が、まさにここに敷かれたのである。
この戦いに登場した主な武将(羽柴秀吉方)
この戦いに登場した主な武将(織田信雄・徳川方)
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