みずの かつなり
| 地域 | 東海・中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川・水野氏 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に立ち沢瀉 |
| 主武器 | 大槍・大太刀 |
| 衣装・甲冑 | 朱塗具足 |
| 武将タイプ | 「鬼日向」・放浪の猛将 |
家康の従兄弟。若き日は全国を放浪して数々の合戦で圧倒的個人の武功を挙げ、後に福山藩主となる。「鬼日向」・放浪の猛将と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。
水野忠重の嫡男
勝成は水野忠重の嫡男として生まれました。水野家は徳川家康の母於大の方の実家で、勝成は家康の従兄弟にあたります。
若き日の武勇
勝成は若い頃から勇猛な武将として知られ、武田家との戦いで功を挙げました。高天神城の戦いなどで活躍したと伝えられます。
父からの勘当
1584年、勝成は父忠重の家臣を斬ったことで、父から勘当されてしまいました。気性の激しさがもたらした出来事でした。
15年に及ぶ放浪
勘当された勝成は、各地を放浪することになります。豊臣秀吉や佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、さまざまな大名のもとに身を寄せたと伝えられます。
「傾奇者」としての日々
放浪中の勝成は、各地で武功を挙げる一方、主君ともめては去ることを繰り返したといわれます。その奔放な生き方は、のちに「傾奇者」の代表として語られるようになりました。
徳川家への帰参
1599年、勝成は家康の取りなしによって父と和解し、水野家に戻りました。長い放浪の末の帰参でした。
父の死と家督
1600年、父の忠重が石田三成方の刺客に殺されるという事件が起こりました。勝成は急いで家督を継ぎ、関ヶ原の戦いに臨むことになります。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは、勝成は大垣城の押さえを任され、西軍の籠もる大垣城を攻めました。戦後、父の旧領を継いで三河刈谷の大名となりました。
大坂夏の陣
1615年の大坂夏の陣では、勝成は大和方面の先鋒を任され、道明寺の戦いなどで奮戦しました。50歳を過ぎてもなお、最前線で戦う武将でした。
大和郡山から備後福山へ
大坂の陣の功で大和郡山の大名となった勝成は、1619年には備後福山10万石に移されました。西国の外様大名を押さえる要の役目を担うことになったのです。
福山城と城下町
勝成は福山に新たに城を築き、城下町を整えました。上水道を引いて町の暮らしを支えるなど、領国の経営にも力を注ぎました。現在の広島県福山市の基礎は、勝成によって築かれたものです。
島原の乱への出陣
1637年に島原の乱が起こると、勝成は75歳という高齢で出陣しました。戦国を生き抜いた老将が、最後の大きな戦いに加わったのです。
長寿の大名
勝成は1651年、88歳で亡くなりました。戦国時代の激しい戦いから、江戸時代の安定までを生き抜いた人物でした。
放浪から名君へ
若い頃の勝成は、勘当されて各地をさまよう荒々しい武将でした。しかし晩年には福山藩の基礎を築く名君となりました。その生涯の振れ幅の大きさは、戦国武将の中でも特に印象的です。
勝成の評価
勝成は、戦場での武勇と、領国経営の手腕の両方を持ち合わせた人物です。福山の町では今も藩祖として敬われ、福山城とともにその名が語り継がれています。
このイラストについて
赤い甲冑で槍を手にし、夕日に染まる戦場で軍勢を背に立つ姿です。
勝成は若い頃から戦場で暴れまわった勇将で、大坂夏の陣でも50代で最前線に立ちました。夕日の戦場は、放浪の時代から大坂の陣まで戦い続けた勝成の武将としての生涯をイメージしています。甲冑の色や顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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