九鬼守隆 | 九鬼嘉隆の子で鳥羽藩主。関ヶ原で父と敵味方に分かれ、父の助命を願ったが間に合わなかった

九鬼守隆のイラスト(イメージ)

くき もりたか

地域東海(志摩・鳥羽)
所属勢力・属性九鬼氏(鳥羽藩主)、徳川方
大名家九鬼家
家紋七曜
主武器―(采配)
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ水軍の大名

九鬼守隆(くき もりたか)は、織田信長・豊臣秀吉の水軍をひきいた九鬼嘉隆の子で、志摩の鳥羽藩主となった大名である。天正元年(1573年)に生まれ、寛永9年(1632年)に60歳で亡くなった。関ヶ原の戦いでは、西軍についた父と分かれて東軍についた。

3行でわかる九鬼守隆
  • 九鬼嘉隆の次男で、父から家督を継いで水軍をひきいた
  • 関ヶ原で東軍につき、西軍についた父の助命を家康に願ったが、父はすでに自害していた
  • 鳥羽藩主として大坂の陣でも水軍をひきいた
目次

水軍の家を継ぐ

守隆は九鬼嘉隆の次男として生まれた。父は織田信長のもとで鉄甲船をつくって毛利水軍を破り、秀吉の朝鮮出兵でも水軍をひきいた。慶長2年(1597年)ごろ、守隆は父から家督を継いだ。

関ヶ原で父と分かれる

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、守隆は徳川家康に従って東軍についた。一方、父の嘉隆は西軍につき、守隆の留守中に鳥羽城を占拠した。

戦いが東軍の勝利に終わると、守隆は自分の手柄にかえて父の命を助けてほしいと家康に願い、許された。しかし知らせが届く前に、嘉隆は答志島(三重県鳥羽市)で自害していた。守隆は深く悲しんだと伝わる。

鳥羽藩主

守隆は戦功によって加増され、鳥羽藩5万6千石の藩主となった。大坂の陣でも水軍をひきいて戦っている。

寛永9年(1632年)に亡くなると、跡継ぎをめぐって家中が争い、九鬼家は摂津三田と丹波綾部に分けて移された。海の大名だった九鬼家は、こうして海から離れることになった。

九鬼守隆をめぐる人物

  • 父:九鬼嘉隆
  • 味方した相手:徳川家康
  • 仕えた相手:豊臣秀吉/徳川家康/徳川秀忠

ゆかりの地

  • 鳥羽城跡(三重県鳥羽市):九鬼家の居城。海に面した水城
  • 答志島(九鬼嘉隆の首塚・胴塚)(三重県鳥羽市):父・嘉隆が自害した島
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次