おおくぼ ただつね
| 地域 | 関東(武蔵) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣・譜代大名 |
| 大名家 | 大久保家 |
| 家紋 | 上り藤に大の字(大久保藤) |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 若き譜代大名 |
大久保忠常は、徳川家の重臣・大久保忠隣の長男である。徳川秀忠に従って戦い、武蔵騎西(埼玉県加須市)2万石の城主となった。32歳で早世し、その死は父・忠隣の失脚にもつながったといわれる。
大久保家の嫡男として
大久保氏は、もとは宇都宮氏の流れをくみ、宇津と名のって三河の松平氏(のちの徳川氏)に仕えた家である。宇津忠茂の子・忠員の代に大久保と改めたとされる。
忠常は天正8年(1580)、大久保忠隣の長男として生まれた。母は石川家成の娘である。通称は新十郎、官位は加賀守とされる。妻には奥平信昌の娘を迎えた。
秀忠のもとでの戦い
天正18年(1590)、忠常は徳川秀忠に従って小田原攻めに加わった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのときは、中山道を進む秀忠の軍に属し、信濃上田城の真田昌幸を攻めた。
のちに武蔵国騎西に2万石を与えられ、騎西城主となった。父の忠隣は相模小田原城主で、秀忠を支える重臣であった。忠常はその跡継ぎとして期待されていた。
騎西城は、武蔵の北部にあった城で、江戸を守る要所の一つであった。家康の信頼が厚い大久保家の嫡男に、この地が任されたのである。
早すぎる死と父の失脚
しかし忠常は、慶長16年(1611)10月、32歳の若さで病のため亡くなった。跡継ぎを失った忠隣は大きな衝撃を受け、政務にも手がつかなくなったと伝わる。
その3年後の慶長19年(1614)、忠隣は突然改易された。政敵の本多正信の働きかけがあったとする説もある。忠常の死が、大久保家の運命を大きく変えるきっかけになったといえる。
忠隣は近江に流されて出家し、寛永5年(1628)にその地で亡くなった。
子孫と大久保家の復活
忠常の子・忠職は、祖父の改易で一時蟄居したが、のちに許された。寛永9年(1632)に美濃加納城主5万石となり、播磨明石、肥前唐津へと移った。
忠職の跡は、いとこの大久保忠朝が養子として継いだ。忠朝は老中となり、下総佐倉をへて貞享3年(1686)に小田原藩主に戻った。大久保家は小田原藩主として幕末まで続き、維新後は子爵となった。
忠常の娘たちは、片桐貞昌(石州)、本多重能、里見忠義にそれぞれ嫁いだとされる。早世した忠常の血筋は、子の忠職を通して大久保家に受けつがれた。
加須市には、騎西城主の位牌と伝わるものが残されている。
ゆかりの地
- 騎西城跡(埼玉県加須市):忠常が2万石で城主を務めた城
参考にした資料
大久保忠常とは
大久保忠常は、徳川家の重臣・大久保忠隣の嫡男です。
秀忠のもとで
忠常は、二代将軍・秀忠に仕え、関ヶ原の戦いの際も秀忠の軍に加わりました。
早すぎる死
忠常は、慶長16年(1611年)に32歳で亡くなりました。
父の失脚
忠常の死後まもなく、父・忠隣は改易されました。
評価
忠常は、名門・大久保家の跡継ぎとして期待されながら、若くして亡くなった人物です。その子孫は、のちに大久保家を再興しました。
このイラストについて
このイラストは、城を背に、屋敷の柱に手をかけて立つ忠常を描いています。
若々しい顔と赤い甲冑で、名門の跡継ぎとしての姿を表しました。
夕暮れの城は、忠常が仕えた徳川家の城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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