織田家臣団と秀吉家臣団を比較|強さの秘訣と弱点、外交・先陣・鉄砲隊・水軍・大いくさは誰が担ったか

織田信長と豊臣秀吉のイラスト(イメージ)

天下統一へ大きく近づいた織田信長と、それを受け継いで天下を統一した豊臣秀吉。二人の強さを支えたのは、それぞれの家臣団でした。秀吉自身がもともと織田家の家臣だったように、秀吉の家臣団は織田家臣団のなかから育った「のれん分け」のような集団です。それでも、つくりも強みも弱みも、かなり違います。

この記事では、外交・先陣・鉄砲隊・水軍・築城・内政など役割ごとに「誰が担ったか」を並べて比べ、そのうえで両家臣団の強さの秘訣と弱さを整理します。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる時代の、人の動きを知る手がかりにもどうぞ。

目次

役割別の早見表:織田家と秀吉軍団、誰が何を担ったか

同じ人物が両方の欄に出てくるのは、織田家臣から秀吉の家臣・配下に移ったためです。「よく務めた」「担ったとされる」人物を挙げており、つねにその役だけをしていたわけではありません。

役割織田家(信長)秀吉軍団
重臣・宿老柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、林秀貞、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉弟の豊臣秀長を筆頭に、蜂須賀正勝、浅野長政、黒田官兵衛。晩年は徳川家康・前田利家らの五大老と五奉行
方面軍の大将北陸=柴田勝家、中国=羽柴秀吉、近畿・丹波=明智光秀、関東=滝川一益、本願寺攻め=佐久間信盛、四国(予定)=織田信孝四国攻め・紀州攻めの総大将=豊臣秀長、九州攻めの一手=秀長、のちに豊臣秀次・宇喜多秀家ら一門。毛利・徳川などの大大名もまとめて動員
外交・取次将軍家・長宗我部=明智光秀、毛利・中国筋=羽柴秀吉、関東・北条=滝川一益、朝廷・京=村井貞勝、外交文書=武井夕庵大名の取次=豊臣秀長(「公儀のことは宰相」)、毛利=黒田官兵衛・蜂須賀正勝、上杉・佐竹・島津=石田三成、伊達など東国=浅野長政、朝鮮・明=小西行長
先陣・猛将「かかれ柴田」柴田勝家、「攻めの三左」森可成、森長可、赤母衣衆の前田利家、黒母衣衆の佐々成政賤ヶ岳七本槍の加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・片桐且元ら、藤堂高虎
しんがり(退き戦)「退き佐久間」佐久間信盛金ヶ崎の退き口でしんがりを務めたとされる秀吉自身
鉄砲隊長篠の戦いの鉄砲奉行=佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政(『信長公記』)。鉄砲の名手と伝わる滝川一益大名ごとに鉄砲隊を持つのが当たり前になり、目立つ「鉄砲大将」は少ない。雑賀衆の鈴木重秀(雑賀孫一)が秀吉に従ったとされる
水軍九鬼嘉隆(第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破る)、伊勢の滝川一益九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明、藤堂高虎、来島通総(朝鮮出兵の船手衆)、海の司令官と呼ばれた小西行長
築城・普請安土城の普請奉行=丹羽長秀大坂城の縄張りに関わったとされる黒田官兵衛、城づくりの名手の藤堂高虎・加藤清正
内政・京都の政務京都所司代=村井貞勝、京の政務=明智光秀・丹羽長秀・羽柴秀吉五奉行=浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以(京都所司代)。太閤検地は三成・長政ら
兵站・お金専任の担当ははっきりしない(重臣がそれぞれの方面で担う)兵站=石田三成、財政=長束正家
調略羽柴秀吉、明智光秀黒田官兵衛、竹中半兵衛(初期)、蜂須賀正勝
茶の湯・文化茶頭=今井宗久・千宗易(利休)茶頭=千利休、のちに古田織部
一門(親族)嫡男の織田信忠、織田信雄・織田信孝弟の豊臣秀長、甥の豊臣秀次、養子の羽柴秀勝・小早川秀秋、宇喜多秀家(猶子)

織田家臣団の強さの秘訣

1. 生まれより実力で取り立てた

足軽の家とされる秀吉、前半生がよくわからない光秀、甲賀出身とも伝わる滝川一益。信長は、家柄に関係なく働きのある者を城持ち・国持ちにしました。秀吉が長浜城主になったのも、浅井攻めの手柄によるものです。「手柄を立てれば出世できる」という見通しが、家臣たちを本気にさせました。

2. 方面軍で、いくつもの戦線を同時に進めた

天正年間の後半、信長は柴田勝家を北陸、秀吉を中国、光秀を近畿・丹波、滝川一益を関東、佐久間信盛を本願寺攻めにあて、それぞれに大軍をまかせました。信長が一か所ずつ戦うのではなく、大将たちが同時に各地を攻める。このしくみが、織田家の勢力が急に広がった大きな理由です。

3. 新しい戦い方を取り入れた

長篠の戦いでは、佐々成政・前田利家らを鉄砲奉行にして大量の鉄砲を使い、第二次木津川口の戦いでは九鬼嘉隆の大船で毛利水軍を破りました。鉄砲隊も水軍も、得意な家臣に任せる形で力を伸ばしています。

4. 家臣どうしを競わせた

同じ「方面軍の大将」どうしで手柄を競わせたことが、働きぶりを引き出しました。秀吉と勝家、光秀と秀吉のように、ライバル関係が成長のばねになりました。

織田家臣団の弱さ

1. すべてが信長ひとりにかかっていた

大きなことは信長がすべて決め、家臣は信長の顔色を見て動きました。そのため、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長と嫡男の信忠が同時に亡くなると、家臣団をまとめる中心がなくなり、清須会議から賤ヶ岳の戦いへと、家臣どうしの争いになりました。

2. 謀反や離反が続いた

義弟の浅井長政、松永久秀(二度)、荒木村重、そして明智光秀。信長は、身内や重臣にたびたび背かれています。理由は人によって違い、諸説ありますが、急な方針の変更や厳しい処分への不安も一因とみる見方があります。

3. 古い家臣にも厳しかった

天正8年(1580年)、信長は長年仕えた佐久間信盛を、19か条の折檻状で責めて追放しました。同じころ林秀貞や安藤守就も追い出されています。功績のある古株でも、働きが足りないと切り捨てられる。この緊張感は強さでもありましたが、家臣の心を休ませない面もありました。

4. 跡継ぎの体制が育ちきっていなかった

信忠に家督を譲ってはいたものの、信雄・信孝ら一門の力は重臣たちに及ばず、信長亡きあと織田家を立て直せる人物がいませんでした。

秀吉家臣団の強さの秘訣

1. 弟・秀長という「調整役」がいた

秀吉家臣団のいちばんの強みは、弟の豊臣秀長です。四国攻めの総大将を務め、大和・紀伊・和泉をおさめ、大名どうしのもめごとの取り次ぎもしました。大友宗麟が「内々のことは宗易(利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と書き残したように、秀長は政権の要でした。

2. 子飼い・旧同僚・外様を重ねたしくみ

秀吉の家臣団は、三つの層でできていました。

  • 子飼い:秀吉と寧々(北政所)が育てた加藤清正・福島正則、長浜時代に取り立てた石田三成ら
  • 織田家の旧同僚:前田利家・丹羽長秀・池田恒興など、かつて肩を並べた武将たち
  • 降した大名:毛利・長宗我部・島津・徳川など、戦って従えた大名を、領地を認めてそのまま味方に組みこんだ

倒した相手を滅ぼさず家臣団に入れていくことで、秀吉の動かせる兵は一気にふくらみました。

3. 戦う前に勝つ:調略と物量

黒田官兵衛や蜂須賀正勝らによる調略、鳥取城や備中高松城の兵糧攻め・水攻めなど、秀吉の戦いは「なるべく戦わずに勝つ」ものが多いのが特徴です。小田原攻めのような大軍の動員を支えたのは、石田三成・長束正家らによる兵糧や物資の手配でした。

4. 役割分担がはっきりしていた

戦場で槍をふるう者(清正・正則ら)、お金や兵糧を回す者(三成・正家ら)、京をおさめる者(前田玄以)と、仕事の分け方がはっきりしていました。天下を「おさめる」段階に入ってからは、この官僚的なしくみが力を発揮します。

秀吉家臣団の弱さ

1. 古くからの家臣と一門が少なかった

秀吉は低い身分から出世したため、何代も仕えてきた家臣(譜代)や、頼れる親族がほとんどいませんでした。弟の秀長、甥の秀次、養子たちに頼るしかなく、その数は限られていました。

2. 秀長の死と秀次事件

天正19年(1591年)1月に秀長が亡くなり、同じ年に秀吉の子・鶴松も亡くなります。さらに文禄4年(1595年)には、後継者だった秀次が切腹に追いこまれました。家臣団をまとめる人と、次の世代の柱を、短いあいだに続けて失ったのです。

3. 武断派と文治派の対立

戦場で働く加藤清正・福島正則らと、政務を担う石田三成らのあいだには、朝鮮出兵のころから深い溝ができたとされます。役割分担の明確さは強みでしたが、裏返せば仲間割れの種にもなりました。この対立は、秀吉の死後、関ヶ原の戦いへとつながっていきます。

4. 大きくなりすぎた大名を抑えきれなかった

降した大名を取りこむやり方は、裏を返せば、徳川家康のような大きな力を持つ大名を家臣団の内側に抱えこむことでもありました。秀吉は晩年、五大老・五奉行で幼い秀頼を支える形をつくりましたが、秀吉の死後、それを抑えられる人はいませんでした。

大きな合戦で比べる:生涯をかけた大いくさと「潮目」

家臣団の力がいちばんはっきり表れるのは合戦です。信長と秀吉それぞれの、運命を分けた戦いを並べてみます。年はいずれも通説によります。

織田信長の大いくさ

合戦年相手何が変わったか
桶狭間の戦い1560年今川義元大軍の今川義元を討ち取り、一気に名を上げた。生涯をかけた一戦。今川から離れた松平元康(家康)と、のちに同盟を結ぶきっかけにもなった
稲葉山城の戦い1567年斎藤龍興美濃を手に入れ、城下を「岐阜」と改めた。美濃三人衆の寝返りが決め手で、調略の力が生きた戦い
金ヶ崎の退き口1570年朝倉義景・浅井長政義弟・長政の裏切りで挟み撃ちの危機。生涯最大のピンチとも言われ、しんがりの働きで京へ逃げ切った
姉川の戦い1570年浅井・朝倉徳川とともに勝利したが、浅井・朝倉を滅ぼすまでには至らず、長い戦いが続くことになった
長篠の戦い1575年武田勝頼鉄砲奉行を置いた大量の鉄砲で、最強といわれた武田軍に大勝。東の脅威が弱まり、潮目が大きく変わった
石山合戦1570〜1580年本願寺約10年に及んだ、信長がもっとも長く苦しんだ戦い。九鬼水軍の勝利もあり、最後は本願寺が大坂を退いた
本能寺の変1582年明智光秀家臣の謀反で信長・信忠が死去。天下統一を目前に、織田家臣団の時代が終わった

豊臣秀吉の大いくさ

合戦年相手何が変わったか
三木城・鳥取城の兵糧攻め1578〜1581年別所長治・吉川経家城を囲んで兵糧を断つ「戦わずに勝つ」戦い方を確立。秀吉らしさがはっきり出た
備中高松城の水攻め・中国大返し1582年毛利(清水宗治)本能寺の知らせを受けて毛利と和睦し、大軍を急いで京へ戻した。秀吉の人生を決めた大勝負
山崎の戦い1582年明智光秀主君の仇を討ち、織田家臣のなかで頭ひとつ抜け出した。ここが最大の潮目
賤ヶ岳の戦い1583年柴田勝家織田家の筆頭宿老・勝家を破り、信長の後継者の座をほぼ手中に。子飼いの七本槍が名を上げた
小牧・長久手の戦い1584年徳川家康・織田信雄長久手で大敗し、家康には戦で勝てなかった。信雄と単独で和睦して家康の大義名分を奪い、のちに外交で臣従させた
四国攻め・九州征伐1585〜1587年長宗我部元親・島津義久弟・秀長を総大将にした大軍で西日本を平定。圧倒的な物量で降伏させ、領地を認めて家臣団に組みこんだ
小田原征伐1590年北条氏政・氏直全国の大名を動員して北条氏を降し、天下統一を果たした
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)1592〜1598年朝鮮・明大名たちを疲れさせ、家臣団の対立を深めた。秀吉の死で撤兵し、豊臣政権が弱る大きな原因になった

信長の大いくさは、桶狭間・金ヶ崎のように「負ければ終わり」の危うい戦いから始まり、長篠で一気に流れをつかみました。秀吉は、中国大返しと山崎という一度の大勝負で天下への道を開き、そのあとは大軍と調略で「戦う前に勝つ」戦いを重ねています。ただ一人、戦場で勝てなかった相手が家康だったことは、のちの豊臣家の運命を考えると象徴的です。

まとめ:ひと目で比べる強さと弱さ

織田家臣団秀吉家臣団
強さ実力主義、方面軍による同時進行、鉄砲・水軍など新しい戦い方、家臣どうしの競争秀長という調整役、子飼い・旧同僚・降した大名の三層構造、調略と物量、役割分担
弱さ信長ひとりへの依存、謀反・離反の多さ、古株にも厳しい処分、跡継ぎ体制の未熟譜代と一門の少なさ、秀長の死と秀次事件、武断派と文治派の対立、大大名を抑えきれない
崩れたきっかけ本能寺の変(1582年)で信長・信忠が同時に死去秀長の死(1591年)、秀次事件(1595年)、秀吉の死(1598年)

信長の家臣団は「信長という強い中心」で動く集団、秀吉の家臣団は「秀吉と秀長を中心に、さまざまな人を組み合わせた」集団でした。どちらも中心となる人物を失ったときに崩れていった点は共通しています。秀長が長生きしていたら豊臣家はどうなっていたか。そう考えさせられるのも、この比較のおもしろさです。

家臣たちの一覧は三英傑家臣団のページでも見られます。

二人の領地の広さは信長と秀吉の領地・石高を比較で、勢力図つきで比べています。

水軍のちがいは信長と秀吉の水軍を比較でくわしく解説しています。

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