きつき しげひで
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友家臣 |
| 大名家 | 大友 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 豊後木付城主・忠節 |
豊後木付城主。耳川の戦い後の大友家崩壊の危機において、島津軍の猛攻から自城を死守し大友家への忠義を貫いた。
木付鎮秀とは
木付鎮秀は、豊後の大友家に仕えた木付氏の当主で、杵築の木付城を本拠とした武将です。名前の「鎮」の字は、大友義鎮(宗麟)から受けたものと考えられます。
木付氏
木付氏は、大友家の一族の流れをくむ家とされ、鎌倉時代から豊後の国東半島の付け根に根を張りました。
木付城
木付城は、杵築市の守江湾に面した台地の上にあった城です。のちの杵築城で、今は模擬天守が建てられ、城下には武家屋敷の町並みが残っています。
杵築の地名
もとは「木付」と書いた地名は、江戸時代に幕府の朱印状で「杵築」と書かれたことから、「杵築」の字が使われるようになったと伝えられます。
耳川の戦い
天正6年(1578年)、大友家は日向の耳川の戦いで島津家に大敗し、多くの重臣を失いました。これをきっかけに、大友家の力は大きく衰えました。
豊後の危機
天正14年(1586年)、島津家は豊後に攻め込み、各地の城を攻めました。大友家の家臣の中には島津方に降る者も多く出ました。
木付城の籠城
この島津の侵攻で、木付城も攻撃を受けたと伝えられます。鎮秀は城に籠もり、大友家への忠義を守ったとされます。
城を守った人々
木付城の戦いでは、城に籠もった家臣や、その家族たちも守りに加わったという話が伝わっています。
秀吉の援軍
翌年、秀吉の大軍が九州に入り、島津家は降伏しました。豊後の城を守り抜いた家臣たちの働きが、大友家の存続を支えました。
大友家の改易
しかし、文禄の役の際の失態を責められて、大友義統は文禄2年(1593年)に改易されました。木付氏も、主家とともに領地を失いました。
木付氏の最期
主家の改易を知った木付氏の当主は自害したと伝えられ、木付氏はここで終わりを迎えたとされます。
国東半島
木付城のある杵築は、国東半島の付け根にあたります。国東半島には、六郷満山と呼ばれる古い寺々があり、独特の仏教文化が育まれました。
杵築城の今
杵築城跡は城山公園となり、模擬天守からは守江湾を見渡すことができます。
大友家の家臣団
大友家の家臣団は、豊後の国衆のほか、筑後や豊前の国衆も加わった大きなものでした。
評価
鎮秀は、大友家が衰えていく時代に、本拠の城を守って主家への忠義を貫いた武将と伝えられます。その名は、杵築の町の歴史とともに残っています。
このイラストについて
このイラストは、山の上の城を背に、腕を組んで立つ鎮秀を描いています。
腕を組み、まっすぐ前を見る姿で、城を守り抜く覚悟を決めた城主の落ち着きを表しました。
雲海の上の城と陣の旗は、島津の侵攻に備える豊後の城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から豊後の守護を務めた家。1550年、当主の大友義鑑が家臣に襲われる「二階崩れの変」で死去し、子の義鎮(宗麟)が家督を継いだ。宗麟は豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を手に入れ、北九州に一大勢力を築いた。
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