本多俊政 | 高取藩の初代藩主。秀長・秀保・秀吉に仕え、関ヶ原では東軍に。留守の高取城は家臣だけで守りぬいた

本多俊政のイラスト(イメージ)

ほんだ としまさ

地域近畿(大和・高取)
所属勢力・属性豊臣氏(秀長・秀保の家臣、のち秀吉の直臣)→ 徳川方(関ヶ原で東軍)
大名家本多氏(大和高取藩)
家紋不詳
主武器不詳
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ城を守りぬく堅実な将

本多俊政(ほんだ としまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名で、大和高取藩の初代藩主である。父は豊臣秀長の家臣で高取城主だった本多利久。諱は利朝、正武とも伝わる。秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍についた。城主が留守のあいだ、高取城は西軍に攻められたが、家臣たちだけで守りぬいた。生まれた年はわかっておらず、慶長15年(1610年)閏2月8日に亡くなった。

目次

父とともに秀長に仕える

俊政は父の利久とともに秀長に仕え、滝川一益の長島城攻めや賤ヶ岳の戦いに加わった。天正12年(1584年)には従五位下に叙任されている。天正の終わりごろ、父から1万石を分け与えられた。

秀保に仕え、朝鮮出兵では壱岐へ

天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、跡を継いだ秀保に仕えた。文禄元年(1592年)の文禄の役では、兵500を率いて壱岐(長崎県壱岐市)の勝本城に入った。朝鮮へ渡る軍のために物資を船で運ぶ仕事と、島の治安を守る役目を担ったという。前線で戦う役ではなく、軍を後ろから支える役である。

秀吉の直臣となり、2万5千石に

文禄4年(1595年)に秀保が亡くなると、俊政は秀吉の直臣となった。同じ年に紀州の代官をつとめ、加増を受けて知行は合わせて2万5千石になったとされる。

関ヶ原 ― 主のいない高取城を家臣が守る

慶長5年(1600年)、俊政は家康に従って会津の上杉景勝を討つ戦いに出陣した。その留守中に石田三成らが挙兵すると、俊政はそのまま家康の東軍についた。

このとき大和の高取城は西軍に攻められた。城主の俊政はいなかったが、残された家臣たちだけで城を守りぬき、高取城は落ちなかった。父の利久が改修した山の上の堅い城と、家臣たちの粘りがものを言ったといえる。戦後、俊政は所領を認められ、高取藩の初代藩主となった。

晩年と本多家のその後

慶長8年(1603年)、父の利久が亡くなって家督を継いだ。慶長15年(1610年)閏2月8日に亡くなり、跡は子の政武が継いだ。しかし政武には跡継ぎがなく、本多家は2代で絶えた。高取にはのちに植村家が入り、江戸時代の終わりまで高取藩を治めた。

秀長の家臣の家が、関ヶ原で東軍についたことで大名として生き残った例の一つである。ほかの家臣たちのその後は秀長の家臣は徳川の世で何をしたのかで紹介している。

本多俊政をめぐる人物

  • 父:本多利久(高取城主)
  • 子:本多政武
  • 主君:豊臣秀長/豊臣秀保/豊臣秀吉
  • 関ヶ原で従った相手:徳川家康
  • 秀長家の同僚:藤堂高虎/桑山重晴/小堀正次

ゆかりの地

  • 高取城跡(奈良県高市郡高取町):俊政の居城。関ヶ原のとき家臣たちが西軍から守りぬいた
  • 勝本城跡(長崎県壱岐市):文禄の役で俊政が兵500を率いて入った城
  • 大和郡山城(奈良県大和郡山市):主君・秀長と秀保の居城
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