豊臣秀吉の側室一覧|何人いた?淀殿・松の丸殿・加賀殿・南殿…全員の出自とその後

醍醐の花見で桜の下に並ぶ豊臣秀吉と正室・側室たち(イメージ)

豊臣秀吉は「女好き」としてよく知られ、多くの側室を抱えていました。では、秀吉の側室は何人いたのでしょうか。そして、それぞれどんな家の出身だったのでしょうか。

この記事では、記録や伝えに名前が残る秀吉の側室を、出自(どの家の娘か)・側室になった時期・子の有無・その後まで一覧にして整理します。大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、茶々(淀殿)が秀吉の妻となる背景を知る手がかりにもなります。

先に結論:秀吉の側室は何人?

  • 名前が伝わる側室は十数人。数え方によって「16人」「20人前後」などと言われる
  • 宣教師フロイスは「300人の女性を抱えていた」と書いているが、誇張を含むとみられる
  • 織田・浅井・京極・前田・蒲生など、名家や主家の娘が多いのが特徴
  • 秀吉の子を産んだのは淀殿と、長浜時代の南殿(説)だけ
目次

秀吉の正室と側室の一覧表

呼び名出自(父・家)秀吉の妻となった時期秀吉との子
寧々(北政所)【正室】杉原定利の娘、浅野長勝の養女永禄4年(1561)なし
南殿不明長浜城主時代(1570年代)石松丸秀勝・女の子(説)
南の局因幡の山名豊国(禅高)の娘とされる鳥取城攻めのころ(1580年ごろ)とされるなし
姫路殿織田信包(信長の弟)の娘とされる中国攻めのころなし
松の丸殿(京極竜子)近江の名門・京極高吉の娘。母は浅井長政の姉で、茶々のいとこ本能寺の変のあと(1582〜83年ごろ)なし
三の丸殿織田信長の娘天下統一のころなし
加賀殿(摩阿姫)前田利家の三女天正13〜14年(1585〜86)ごろなし
三条殿蒲生賢秀の娘(蒲生氏郷の妹)天下統一のころなし
淀殿(茶々)浅井長政とお市の方の長女。信長の姪天正16年(1588)ごろ(もっと早いとする説も)鶴松・秀頼
甲斐姫武蔵忍城主・成田氏長の娘小田原征伐のあと(1590年〜)なし
月桂院足利頼純の娘(古河公方の一族)。下野の塩谷氏の妻だった小田原征伐のころ(1590年ごろ)なし
広沢局肥前の名護屋氏の娘とされる朝鮮出兵で名護屋在陣中(1592〜93年ごろ)なし

※側室の範囲や、出自・時期には諸説があります。表は通説や伝えをもとに整理したものです。

秀吉の側室は何人いたのか

秀吉の側室の正確な数はわかっていません。記録や伝えで名前がわかる女性は十数人で、侍女まで含めると「16人」「20人前後」などと言われます。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、秀吉が大坂城に「300人もの女性を抱えていた」と書き残していますが、秀吉に批判的な立場からの記述で、そのまま事実とは受け取れません。

はっきりしているのは、秀吉が天下人になるにつれて、側室の顔ぶれが名家の娘へと変わっていったことです。農民の出から成り上がった秀吉にとって、旧主・織田家や名門の娘を妻に迎えることは、自らの権威を示す手段でもありました。

長浜・中国攻めのころの側室

南殿 — 秀吉の子を産んだとされる長浜時代の女性

長浜城主だった1570年代、秀吉のそばにいたとされるのが南殿です。竹生島の奉加帳に、寧々・母のなか・石松丸と並んで「南殿」の名があり、最初の子・石松丸秀勝と女の子の母と考えられています。出自は不明で、謎の多い女性です(南殿とは)。

南の局 — 鳥取城攻めのころの側室

因幡の山名豊国(禅高)の娘とされ、秀吉の中国攻め・鳥取城攻めのころに秀吉のもとに入ったと伝わります。南殿と名前が似ているため混同されることがありますが、時期が異なり別人とみられます。

姫路殿 — 姫路城に置かれた織田の娘

信長の弟・織田信包の娘とされ、秀吉が中国攻めの拠点とした姫路城に住んだことから「姫路殿」と呼ばれました。主君・信長の一族の娘を妻に迎えた、早い例といえます。

天下人となってからの側室

松の丸殿(京極竜子) — 淀殿と並ぶ寵愛を受けた名門の娘

近江の名門・京極家の娘で、母は浅井長政の姉。つまり茶々のいとこにあたります。はじめ若狭の武田元明に嫁ぎましたが、元明は本能寺の変で明智光秀に味方して滅び、竜子は秀吉の側室となりました。兄の京極高次(お初の夫)が出世したのは、竜子の縁によるとも言われ、「蛍大名」と陰口をたたかれました。

秀吉の死後は兄のもとに身を寄せ、大坂の陣のあと、処刑された秀頼の子・国松の遺体を引き取って京都の誓願寺に葬ったと伝えられます。寛永11年(1634)に亡くなりました。

三の丸殿 — 信長の娘

織田信長の娘で、城の三の丸に住んだことからこう呼ばれたと考えられます。主君の娘を側室にしたことは、秀吉が織田家の上に立ったことを象徴しています。秀吉の死後は公家の二条昭実に嫁いだとされます。

加賀殿(摩阿姫) — 前田利家の娘

秀吉の盟友・前田利家の三女です。賤ヶ岳の戦いで許嫁を失ったのち、秀吉の側室となりました。病弱だったといわれ、秀吉の存命中に側室を退き、公家の万里小路充房に嫁いだのち、加賀に戻って亡くなったと伝わります。

三条殿 — 蒲生氏郷の妹

近江の蒲生賢秀の娘で、会津の大名・蒲生氏郷の妹です。氏郷は信長の娘婿でもあり、三条殿を迎えたことは有力大名との結びつきを強める意味もあったと考えられます。

淀殿(茶々) — 秀吉の子を産んだ唯一の確かな女性

浅井長政とお市の方の長女で、信長の姪にあたります。父と母を死に追いやった側の秀吉の妻となり、天正17年(1589)に鶴松、文禄2年(1593)に秀頼を産みました。跡継ぎの母として、側室のなかでも別格の存在となり、正室と並ぶ扱いだったとする研究もあります(茶々はなぜ秀吉の側室になったのか)。

甲斐姫 — 忍城を守った武勇の姫

武蔵忍城主・成田氏長の娘です。小田原征伐で石田三成らが忍城を水攻めにしたとき、城を守って奮戦したと伝わる「武勇の姫」として知られます。北条氏の降伏後、秀吉の側室となりました。

月桂院 — 足利将軍家の血をひく女性

古河公方の一族・足利頼純の娘で、下野の塩谷氏に嫁いでいましたが、小田原征伐のころ秀吉の側室となりました。秀吉の死後は徳川家康に招かれ、江戸で長寿を保ったと伝わります。

広沢局 — 名護屋の側室

朝鮮出兵の本陣・肥前名護屋城に秀吉が在陣していたころ、地元の名護屋氏の娘が側室となったと伝わります。名護屋城跡のそばには、広沢局ゆかりの寺が残っています。

醍醐の花見で桜の下に並ぶ豊臣秀吉と正室・側室たち(イメージ)
醍醐の花見(イメージ)

醍醐の花見に見る「側室の序列」

秀吉が亡くなる半年前の慶長3年(1598)3月、京都の醍醐寺で盛大な花見が開かれました。このとき女性たちの輿は、次の順で進んだと記録されています。

  1. 北政所(寧々)
  2. 西の丸殿(淀殿)
  3. 松の丸殿(京極竜子)
  4. 三の丸殿(信長の娘)
  5. 加賀殿(前田利家の娘)

正室の寧々に次ぐ2番目が、秀頼の母である淀殿でした。宴の席では、盃を受ける順番をめぐって淀殿と松の丸殿が張り合い、前田利家の妻・まつがとりなした、という逸話も伝わっています。子を産んだ淀殿と、名門出身で寵愛を受けた松の丸殿。ふたりの「格」をめぐる争いは、側室たちの世界の厳しさを物語っています。

秀吉はなぜ名家の娘ばかりを側室にしたのか

  • 権威づけ:主家の織田家や、近江の名門・京極家、浅井家の娘を妻に迎えることで、出自の低さを補った
  • 大名との結びつき:前田・蒲生といった有力大名の娘を迎え、主従・同盟の関係を強めた
  • 跡継ぎ:何より、豊臣家を継ぐ実子がほしかった。しかし結果として、子を産んだのは淀殿だけだった

秀吉の子どもについては豊臣秀吉の子どもは何人?でくわしくまとめています。

よくある質問

Q. 秀吉の側室で一番有名なのは?

A. 淀殿(茶々)です。秀吉の跡継ぎ・秀頼を産み、秀吉の死後は大坂城で豊臣家を支えました。

Q. 秀吉の正室は誰?

A. 寧々(北政所、のちの高台院)です。永禄4年(1561)に結婚しました。子はありませんでしたが、豊臣家の「おかか様」として家臣たちから慕われました(北政所(ねね))。

Q. 茶々と松の丸殿の関係は?

A. いとこ同士です。松の丸殿の母が浅井長政の姉で、茶々の父が長政なので、二人は浅井の血を引くいとこにあたります。

まとめ

秀吉の側室は、名前が伝わるだけでも十数人。長浜時代の南殿に始まり、天下人になってからは織田・京極・前田・蒲生といった名家の娘たちが並びました。しかし、秀吉の子を産んだのは淀殿と、長浜時代の南殿(説)だけ。数多くの側室を迎えながら跡継ぎに恵まれなかったことが、第39回で描かれる茶々との縁談につながっていきます。

あわせて、日本の歴史ガイドの秀吉の側室は何人いたのかもどうぞ。

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