信長と秀吉の水軍を比較|九鬼嘉隆の大船から海賊停止令・朝鮮出兵まで、強さと弱さ

織田信長と豊臣秀吉のイラスト(イメージ)

戦国時代の天下取りは、陸の戦いだけでは決まりませんでした。大坂の本願寺を囲んだ大坂湾、四国や九州へ大軍を渡す瀬戸内海、そして朝鮮出兵の海。織田信長と豊臣秀吉は、どちらも水軍を使って勢力を広げましたが、その使い方はかなり違います。この記事では、二人の水軍を、担い手・おもな戦い・強さと弱さで比べます。

目次

ひと目でわかる比較表

織田信長の水軍豊臣秀吉の水軍
中心になった人九鬼嘉隆(志摩の海賊衆)、伊勢の滝川一益九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明、藤堂高虎、来島通総、小西行長
おもな海伊勢湾・大坂湾瀬戸内海・太平洋岸・朝鮮半島の海
いちばんの目的本願寺を海から封鎖して、毛利の兵糧入れを止める大軍と兵糧を船で運ぶこと、海を支配下に置くこと
看板の戦い第二次木津川口の戦い(1578年)小田原征伐の下田城攻め(1590年)、朝鮮出兵の海戦
切り札九鬼に造らせた大船(鉄甲船ともいわれる)全国の大名の船をまとめて動かす動員力
苦手だったこと水軍の担い手が少なく、九鬼頼み外国の水軍との本格的な海戦

織田信長の水軍:九鬼嘉隆と「大船」

尾張・美濃から出た信長は、もともと海の戦いが得意な大名ではありませんでした。水軍の力を手に入れたのは、伊勢・志摩を押さえてからです。中心になったのは、志摩の海賊衆だった九鬼嘉隆と、伊勢をまかされた滝川一益でした。天正2年(1574年)の長島一向一揆攻めでは、陸だけでなく海からも長島を囲んでいます。

第一次木津川口の戦い(1576年)で大敗

本願寺との石山合戦で、信長は大坂の本願寺を囲みましたが、本願寺には海から毛利家の兵糧が運びこまれていました。天正4年(1576年)、それを止めようとした織田方の水軍は、木津川の河口で毛利水軍に大敗します。毛利方には、瀬戸内の村上水軍がいて、焙烙火矢(火薬を詰めて投げこむ武器)で織田方の船を次々に焼いたとされます。

大船を造って、第二次木津川口の戦い(1578年)で雪辱

負けた信長は、九鬼嘉隆に燃えにくい大船を造らせました。天正6年(1578年)、九鬼の大船6隻と滝川一益の1隻が大坂湾に入り、11月の第二次木津川口の戦いで毛利水軍を打ち破ります。船に鉄の板を張っていたとする記録もあり「鉄甲船」と呼ばれますが、どこまで鉄で覆っていたかには諸説あります。くわしくは第二次木津川口の戦いの解説をどうぞ。

この勝利で大坂湾の海の道が閉じられ、天正8年(1580年)、本願寺はついに大坂を退きました。信長の水軍は、一つの目的のために大船へ思い切って力をつぎこみ、それをやりとげた水軍だったといえます。

豊臣秀吉の水軍:大名の船をまとめて動かす

秀吉の水軍は、信長のときとは形がちがいます。秀吉自身の「水軍部隊」というより、海に面した領地を持つ大名たちが、それぞれ船手衆(水軍)を率いて秀吉の命令で集まる形でした。九鬼嘉隆は引き続き水軍の中心を務め、淡路の脇坂安治・加藤嘉明、紀伊の藤堂高虎らが加わります。村上水軍のなかでも、来島の来島通総は早くから秀吉方につきました。

海を渡る大軍を運ぶ

天正13年(1585年)の四国攻め、天正15年(1587年)の九州攻めでは、大軍が船で海を渡りました。秀吉の水軍の一番の仕事は、海の上で敵と戦うことよりも、何万もの兵と兵糧を、目的の場所へ確実に運ぶことでした。天正18年(1590年)の小田原征伐では、水軍が伊豆の下田城を海から囲んで開城させています。

海賊停止令(1588年)

天正16年(1588年)、秀吉は海賊停止令を出し、海の上で通行料を取ったり、船を襲ったりすることを禁じました。それまで独立した力を持っていた海賊衆は、大名の家臣になるか、海の仕事から離れるしかなくなります。毛利方だった能島の村上武吉も、その力を大きく失いました。秀吉は海の戦力を「大名の水軍」にまとめ、海そのものを支配下に置いたのです。村上水軍のその後は戦国の水軍大名 ― 村上水軍と海の戦いで解説しています。

朝鮮出兵の海戦

文禄・慶長の役(1592〜1598年)では、豊臣水軍は初めて外国の水軍と本格的に戦いました。文禄元年(1592年)の閑山島の海戦では、脇坂安治の船団が朝鮮水軍の李舜臣に大敗し、海の補給路がおびやかされます。慶長2年(1597年)の漆川梁の海戦では朝鮮水軍を破りましたが、同じ年の鳴梁の海戦では来島通総が戦死しました。

年表で見る二つの水軍

織田水軍と秀吉水軍のおもな出来事の年表
織田水軍と秀吉水軍のおもな出来事(年は通説による)

強さと弱さをくらべる

織田水軍の強さ

  • 一点集中の技術投資:負けた原因を見て、燃えにくい大船という新しい答えを出し、短い期間で造らせた
  • 目的がはっきりしていた:本願寺の海の道を断つという一つの目的にしぼり、それを達成した

織田水軍の弱さ

  • 担い手が少ない:九鬼嘉隆と伊勢の勢力に頼っていて、瀬戸内のような大きな水軍の地盤は持っていなかった
  • 毛利水軍には一度大敗している:第一次木津川口の負けで、本願寺攻めは長引いた

秀吉水軍の強さ

  • 動員力:海に面した大名の船をまとめて動かせたので、四国・九州・小田原と、大軍を次々に渡海させられた
  • 海の支配:海賊停止令で、海を勝手に支配する者をなくし、海の道を政権のものにした
  • 運ぶ力:兵と兵糧を運ぶ兵站の力が、秀吉の「物量で勝つ」戦い方を支えた

秀吉水軍の弱さ

  • 外国との海戦の経験不足:大砲を積んだ朝鮮水軍の戦い方に苦しみ、海の補給路を守りきれなかった
  • まとまりの弱さ:大名ごとの船の寄せ集めで、全体をまとめる指揮のしくみが十分ではなかったとされる

まとめ

信長の水軍は、本願寺を封鎖するという一つの目的のために、九鬼の大船へ集中して勝った「戦うための水軍」でした。秀吉の水軍は、大名の船をまとめ、海賊停止令で海そのものを支配して、大軍を運ぶ「天下を動かすための水軍」です。ただ、そのしくみは国内では強くても、朝鮮出兵の海では弱点を見せました。水軍の武将たちの一覧は水軍の武将のページで見られます。

信長と秀吉の比較は、家臣団の比較、妻・側室の比較、領地・石高の比較もあわせてどうぞ。

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