うえむら いえさだ
| 地域 | 三河国(愛知県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣・家老 |
| 大名家 | 徳川家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 戦国期の具足 |
| 武将タイプ | 重臣・家老 |
植村家存は、三河時代の徳川家康に仕えた家老である。酒井忠次・石川家成らとともに若い家康を支えたが、天正5年(1577)に37歳で亡くなった。その家はのちに大和高取藩の藩主となり、明治維新まで続いた。
父・植村氏明と松平家
植村氏は、松平家に古くから仕えた家である。家存の父植村氏明は、植村持益の孫にあたり、永正17年(1520)に生まれた。
天文4年(1535)、家康の祖父松平清康が尾張の守山で家臣の阿部弥七郎に殺される事件が起きた(守山崩れ)。このとき16歳の氏明は、その場で弥七郎を討ち取った。氏明はその後、家康の父広忠や家康にも仕えたが、天文21年(1552)に尾張の沓掛城で戦死した。33歳であった。
家康の家老として
家存は天文10年(1541)に生まれた。初名は栄政、通称は父と同じ新六郎である。父が戦死したとき、家存はまだ12歳だった。
成長した家存は家康の家臣となり、家老として三河時代の家康に仕えた。同じころ家康を支えた重臣には、酒井忠次や石川家成がいる。家康が今川氏から独立し、三河をまとめていく時期の家臣の一人であった。家存は天正5年(1577)11月5日に亡くなった。37歳であった。
父の氏明、子の家次とともに、家存も40歳を前にして亡くなっている。若くして当主を失うことが続いたが、植村家は家康の家臣として家を保った。
子の家次と信康事件
家存の子植村家次は、永禄10年(1567)に生まれた。天正7年(1579)、家康の長男松平信康に仕えたが、その年に信康が切腹したため、家次は浪人となった。
のちに榊原康政の推挙で家康のもとに戻り、上野国邑楽郡(群馬県)に500石を与えられた。家次は慶長4年(1599)に33歳で亡くなった。
大名となった子孫
家次の子植村家政は、慶長4年(1599)に11歳で徳川秀忠の小姓となった。大坂の陣では斥候を務め、のちに三代将軍家光の大番頭となった。
寛永17年(1640)、家政は大和国高取藩2万5000石の藩主となった。以後、植村氏は14代続き、明治維新まで高取藩を治めた。父子二代で早く亡くなり、一時は浪人も経験した家が、孫の代に大名にまでなったのである。
植村家は、清康・広忠・家康と三代の松平家・徳川家に仕え続けた家である。その長い奉公が、のちに大名に取り立てられる土台になったといえる。
ゆかりの地
- 高取城跡(奈良県高市郡高取町):子孫の植村氏が藩主を務めた高取藩の城
参考にした資料
植村家存とは
植村家存は、徳川家康に仕えた三河の武将です。
父・氏明
父の植村氏明は、松平家に仕えた家臣でした。植村家は、古くから松平家を支えた家です。
家康の家老
家存は、家康の家老として家を支えました。
子孫は大名に
家存の子孫は、のちに大和の高取藩の藩主となりました。
評価
家存は、三河以来の家臣として家康を支え、その家を大名へとつなげた人物です。
このイラストについて
このイラストは、城の天守を背に、建物の中に立つ家存を描いています。
落ち着いた表情と紋の入った甲冑で、家康を支えた家老の姿を表しました。
背後の天守は、徳川家の城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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