みとや ひさすけ
| 地域 | 出雲国(島根県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 出雲の国人領主・尼子氏から毛利氏へ |
| 大名家 | 三刀屋氏(諏訪部氏) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 大勢力の間を渡った国人 |
三刀屋久祐は、出雲国飯石郡の三刀屋郷を治めた国人領主で、三刀屋城の城主である。久扶とも書き、通称は新四郎。尼子・大内・毛利と主を替えながら家を保ったが、最後は毛利輝元に疑われて追放された。
三刀屋氏と三刀屋城
三刀屋氏の本姓は諏訪部氏と伝わる。承久3年(1221)の承久の乱のあと、諏訪部扶長が三刀屋郷の地頭として移り住み、三刀屋城を築いたという。以後、三刀屋(諏訪部)氏は14代368年にわたってこの城を居城とした。
三刀屋城は三刀屋川に臨む山城で、出雲の山間部と平野をつなぐ要所にあった。戦国時代には、毛利氏にとっても大切な兵站の拠点になったとされる。
尼子と大内の間で
久祐は父・頼扶のあとを継ぎ、はじめは尼子晴久に仕えた。天文9年(1540)から翌年にかけて、尼子氏は安芸の吉田郡山城を攻めたが敗れた。この戦いのあと、久祐は出雲の国人たちとともに大内義隆の側についた。
ところが天文12年(1543)、大内軍が月山富田城を攻めているさなか、久祐は三沢為清・本城常光・吉川興経・山内隆通らと一緒に突然尼子方へ寝返り、城に入ったという。この裏切りもあって大内軍は大敗した。国人たちは、勝てそうな側を見きわめて家を守ろうとしたのである。
毛利氏のもとでの戦い
永禄5年(1562)、毛利元就が出雲へ攻め込むと、久祐は毛利氏に従った。その後は吉川元春の指揮のもと、尼子氏の本城である月山富田城の攻撃などに加わったとされる。尼子氏が滅んだあとも毛利方の将として各地の戦いに出た。毛利氏にとって、出雲の山間部を押さえる三刀屋氏の協力は大きな意味を持っていた。のちには小早川隆景の配下に入ったともいう。
追放とその最期
天正16年(1588)、毛利輝元が豊臣秀吉のもとへ上洛したとき、久祐も同行した。このとき徳川家康と面会したことで輝元に疑われ、所領を取り上げられて出雲から追われたという。こうして三刀屋氏は、承久の乱のころから三百数十年にわたって守ってきた三刀屋城を失った。天下が豊臣政権のもとでまとまりつつあった時代、大名にとって家臣がほかの大名と勝手に結びつくことは、見過ごせない問題だったのである。
久祐は天正19年(1591)10月20日に没したとされる。子に孝扶がいたと伝わる。城跡は今、三刀屋城址公園として整えられ、春には桜の名所としてにぎわう。
ゆかりの地
- 三刀屋城跡(島根県雲南市三刀屋町古城):三刀屋氏代々の居城。現在は城址公園で桜の名所
参考にした資料
三刀屋久祐とは
三刀屋久祐は、出雲の三刀屋城を本拠とした三刀屋氏の当主です。
三刀屋城
三刀屋城は、今の島根県雲南市にあった山城です。
尼子家と大内家の間で
三刀屋氏は、尼子家と大内家の間で立場を変えながら家を守りました。
毛利家のもとで
久祐は、のちに毛利家に従い、その家臣として戦いました。
評価
久祐は、出雲の国衆として大きな勢力の間を生き抜いた当主です。しかし最後は、毛利家から追放されたと伝えられます。
このイラストについて
このイラストは、山城を背に座る久祐を描いています。
どっしりと構えた姿で、出雲の国衆の当主としての重みを表しました。
霧の立つ山々と城は、三刀屋氏の本拠・三刀屋城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
出雲の守護・京極氏の守護代だった家。尼子経久が月山富田城を拠点に主家から自立し、戦国大名へと成長した。孫の晴久の代には山陰・山陽の八か国の守護職を得て、中国地方で最大級の勢力となった。
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