ほんだ ただざね
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に立ち葵 |
| 主武器 | 大槍・酒柄杓 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 豪快・身身代わり |
本多忠勝の叔父。三方ヶ原の戦いで酒柄杓を手に徳川軍の殿を務め、「ここから先は一歩も通さぬ」と武田軍へ突き入って討死。
本多忠勝の叔父
忠真は、三河の松平家(のちの徳川家)に仕えた武将で、本多忠勝の叔父にあたります。
兄忠高の死
1549年、兄の本多忠高が安城城攻めで討死しました。忠高の子の忠勝は、まだ1歳ほどでした。
甥を育てる
忠真は、幼い忠勝を引き取って育てました。忠真は、忠勝にとって父代わりの存在でした。
家康に仕える
忠真は、松平元康(のちの徳川家康)に仕え、多くの戦いに加わりました。
忠勝の初陣
忠勝は、13歳のころ初陣を迎えました。忠真はその後見役を務めたとされます。
首を譲る逸話
ある戦いで、忠真が討ち取った敵の首を忠勝に譲って手柄にさせようとしたところ、忠勝は「人の力を借りて手柄を立てることはしない」と断り、自ら敵陣に飛び込んで首を取ったという逸話が伝えられています。
甥の成長
この逸話は、忠真が甥の成長を願い、忠勝がその期待にこたえる強い心を持っていたことを伝えています。
三河一向一揆
1563年、三河で一向一揆が起こり、家康の家臣の中にも一揆に加わる者が出ました。本多家の中でも、一揆に加わった者がいましたが、忠真と忠勝は家康の側に立ったとされます。
武田信玄の侵攻
1572年、甲斐の武田信玄が大軍を率いて遠江に攻め込みました。
三方ヶ原の戦い
家康は浜松城から出て、三方ヶ原で武田軍と戦いましたが、大敗しました。
殿として
忠真は、敗れて浜松城に退く家康の軍の殿を務めました。
ここから先へは
伝承では、忠真は旗指物を地面に突き立て、「ここから先へは一歩も退かぬ」と言って踏みとどまり、追ってくる武田軍に立ち向かったとされます。
討死
忠真は、この三方ヶ原の戦いで討死しました。
忠勝の悲しみ
父代わりの叔父を失った忠勝は、その後も家康のもとで戦い続け、徳川家を代表する名将となりました。
家康を救った殿
三方ヶ原の戦いでは、忠真をはじめ多くの家臣が家康を逃がすために命を落としました。家康が生き延びたのは、こうした家臣たちの犠牲があったからでした。
浜松城
三方ヶ原の戦いのとき、家康は浜松城を本拠としていました。戦いに敗れた家康は、浜松城に逃げ帰りました。
しかみ像
三方ヶ原の戦いの後、家康は自らの苦しげな姿を絵に描かせ、戒めとしたという話が伝えられています。この絵は「しかみ像」と呼ばれます。
忠勝の活躍
忠真に育てられた忠勝は、その後「家康に過ぎたるもの」とたたえられるほどの名将となりました。
忠真の評価
忠真は、兄の遺児である忠勝を育て上げ、三方ヶ原の戦いで家康を守る殿として命を落とした武将です。その生き方は、甥の忠勝の武名とともに語り継がれています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が片手を高く掲げ、刀を構えて、夕焼けに染まる空を背にした姿です。
片手を高く掲げた構えは、三方ヶ原の戦いで殿を務め、追ってくる武田軍の前に踏みとどまったと伝えられる忠真をイメージしています。赤く染まる空は、冬の夕暮れに行われた三方ヶ原の戦いを表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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