まつだいら ただてる
| 地域 | 越後国(新潟県)・信濃国(長野県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川一門・大名 |
| 大名家 | 長沢松平家(徳川氏) |
| 家紋 | 三つ葉葵 |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 大名・悲運の貴公子 |
松平忠輝は、徳川家康の六男である。長沢松平家を継ぎ、越後で最大75万石ともいわれる大領を治め、高田城を築いた。しかし大坂の陣での失態を理由に改易され、信濃諏訪で92歳の長い生涯を終えた。
家康の六男として
忠輝は文禄元年(1592)1月4日、江戸で生まれたとされる。母は家康の側室の茶阿局で、幼名を辰千代といった。はじめは父の家康に遠ざけられたと伝わる。
慶長3年(1598)ごろ、徳川家の一族である三河の長沢松平家(松平康忠の家)を継いだ。長沢松平家は徳川家と同じ松平一族の家である。忠輝は上総介、のちに越後少将とも呼ばれた。妻は伊達政宗の娘の五郎八姫(いろはひめ)である。
越後の大大名へ
忠輝の領地は、武蔵深谷1万石から始まり、下総佐倉、信濃川中島へと移るたびに大きくなった。慶長15年(1610)ごろには越後福島城に入り、川中島とあわせて大きな領地を治めた。石高は45万石とも75万石ともいわれ、資料によって差がある。
慶長19年(1614)、忠輝の居城として高田城が築かれた。全国の大名に工事を分担させる「天下普請」で、義父の伊達政宗も工事にかかわった。高田城はその後、越後高田藩の中心として明治まで使われた。
大坂の陣と改易
元和元年(1615)の大坂夏の陣で、忠輝は戦いに遅れたとされる。行軍の途中、近江の守山で将軍の旗本2人を殺したともいわれる。こうしたことで家康の不興を買った。
翌元和2年(1616)、忠輝は領地をすべて取り上げられた(改易)。理由は大坂の陣への遅参とされるが、キリシタンや外国との貿易にかかわったことを理由に挙げる説もある。処分は兄で将軍の徳川秀忠によって行われた。
配流の長い晩年
改易の後、忠輝は伊勢の朝熊、飛騨の高山へと移され、最後は信濃諏訪の高島城に預けられた。そこで長い歳月を過ごし、天和3年(1683)7月3日に92歳で亡くなった。家康の息子たちの中で、いちばん長生きした人物である。
墓は諏訪市の貞松院にある。華やかな出世と突然の転落、そして長い配流生活という生涯は、今も多くの人の関心を集めている。
ゆかりの地
- 高田城跡(新潟県上越市本城町):慶長19年に天下普請で築かれた忠輝の居城。いまは高田公園。
- 貞松院(長野県諏訪市):忠輝の墓がある寺。
- 高島城(長野県諏訪市高島):忠輝が晩年を過ごし、亡くなった諏訪の城。
参考にした資料
松平忠輝とは
松平忠輝は、徳川家康の六男です。越後高田の大名となりましたが、のちに改易され、長い流罪の日々を送りました。
伊達政宗の娘婿
忠輝の妻は、伊達政宗の娘・五郎八姫でした。政宗は、忠輝の後ろ盾となる立場にありました。
高田城の築城
忠輝の居城として、越後に高田城が築かれました。普請には、多くの大名が駆り出されました。
諏訪での晩年
忠輝は、伊勢・飛騨を経て信濃の諏訪に移され、長い晩年を過ごしました。天和3年(1683年)、92歳で亡くなったとされます。
評価
忠輝は、家康の子として大きな領地を与えられながら、改易によって長い流罪の人生を送った人物です。その数奇な運命は、今も多くの人の関心を集めています。
このイラストについて
このイラストは、月の夜、城と港を背に立つ忠輝を描いています。
夜の闇に立つ姿で、華やかな出世から一転して長い孤独な晩年を送った忠輝の運命を表しました。
月夜の城と海は、忠輝が治めた越後の高田をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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