龍造寺高房 | 龍造寺本家最後の当主、実権を鍋島氏に握られた悲運の人

龍造寺高房のイラスト(イメージ)

りゅうぞうじ たかふさ

地域九州(肥前)
所属勢力・属性龍造寺氏
大名家龍造寺家
家紋日足紋
主武器刀
衣装・甲冑大名の装束
武将タイプ悲運の当主

龍造寺高房は、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の孫で、龍造寺政家の子である。幼くして家督を継いだが、政治の実権は重臣の鍋島直茂・勝茂父子が握っていた。慶長12年(1607)に自害し、大名としての龍造寺本家はここで絶えた。

目次

龍造寺家の起こりと祖父・隆信

龍造寺氏は、藤原秀郷の流れをくむと伝わる一族である。平安時代の末に佐賀へ下った季清の家が、文治2年(1186)に肥前国龍造寺村の地頭職を得て、龍造寺氏を名のったとされる。

戦国時代、分家から本家を継いだ龍造寺隆信が勢力を広げた。隆信は永禄2年(1559)に少弐氏を破り、肥前から筑後・肥後へと領地を広げて戦国大名となった。しかし天正12年(1584)、有馬氏を攻めた島原の戦い(沖田畷の戦い)で討ち死にした。

父・政家と鍋島氏への実権の移り

隆信の死後、子の政家が当主となった。政家は家臣の鍋島直茂に支えられながら政治を行ったが、島津氏の攻勢に押され、その軍門に下った。豊臣秀吉の九州平定後、政家は肥前の所領を認められた。

しかし政家は病弱で、天正18年(1590)に隠居し、子の高房が家督を継いだ。高房はまだ幼く、領国の政治は鍋島直茂が取り仕切った。こうして佐賀の支配権は、しだいに鍋島氏の手に移っていった。直茂は豊臣秀吉や徳川家康にも力を認められていた。

高房の最期と家の断絶

高房は天正14年(1586)の生まれとされる。成長すると、藩主でありながら実権がないことに強い不満を抱いた。龍造寺の一門も、政治を高房に戻すよう働きかけた。高房は幕府にも訴えたが、聞き入れられなかったとされる。

慶長12年(1607)、高房は自害した。妻を手にかけたのち自害を図り、一度は助かったものの、まもなく亡くなったとも伝わる。父の政家もその後まもなく世を去り、大名としての龍造寺家は断絶した。佐賀藩はこの後、鍋島勝茂を藩主とし、鍋島家が明治まで治めた。

化け猫騒動と子孫の訴え

高房の無念の死は、のちに「鍋島騒動」として脚色された。高房の飼い猫が主人のかたきを討とうとする「化け猫騒動」の話として、歌舞伎や講談で広く知られるようになった。これは史実ではなく、物語である。

高房には認められていなかった子がいたとされ、のちに龍造寺伯庵(季明)と名のったと伝わる。伯庵は龍造寺家の再興を求めて江戸幕府に何度も訴えたが、認められなかったという。

ゆかりの地

  • 高伝寺(佐賀県佐賀市本庄町):鍋島家の菩提寺。明治4年に龍造寺家・鍋島家の墓が集められ、両家の墓所となった
  • 佐賀城跡(佐賀県佐賀市城内):龍造寺氏の村中城を拡張して築かれた佐賀藩の居城

参考にした資料

龍造寺家

肥前の国人で、もとは少弐氏の家臣だった。龍造寺隆信が家督を継ぐと少弐氏を滅ぼし、1570年の今山の戦いで大友軍の大軍を夜襲で破って肥前の統一へ進んだ。その後、筑前・筑後・肥後などにも勢力を広げ、「五州二島の太守」と称された。

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家臣団

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