いい なおたか
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に橘 |
| 主武器 | 大槍・朱塗兜 |
| 衣装・甲冑 | 赤備え具足 |
| 武将タイプ | 「赤牛」・苛烈 |
井伊直政の次男。「井伊の赤備え」を継承し、大坂夏の陣で木村重成や後藤又兵衛ら豊臣軍の精鋭を粉砕した鬼将。「赤牛」・苛烈と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。
井伊直政の次男
直孝は徳川四天王の一人、井伊直政の次男として生まれました。母は側室で、幼い頃は井伊家の跡継ぎとは見なされていませんでした。
兄に代わって家督へ
井伊家を継いだのは兄の直勝でしたが、病弱で家中をまとめきれませんでした。そこで家康の命により、直孝が井伊家の主力を率いることになり、のちに彦根藩主となりました。
大坂の陣の初陣
1614年の大坂冬の陣で、直孝は井伊家の軍を率いて出陣しました。真田丸の攻防では、徳川方が大きな損害を出す場面もありました。
夏の陣での奮戦
翌1615年の大坂夏の陣では、若江の戦いで豊臣方の木村重成の軍と戦い、重成を討ち取りました。この戦いで直孝は井伊家の武名を大いに高めました。
「井伊の赤牛」
直孝は父直政から受け継いだ赤備えの部隊を率いて戦い、その勇猛さから「井伊の赤牛」と呼ばれたとも伝えられます。
彦根藩の発展
直孝の時代、彦根藩は加増を重ねて30万石となりました。譜代大名の中で最も大きな石高で、井伊家は譜代大名の筆頭とされるようになりました。
将軍家の信頼
直孝は二代将軍秀忠から深く信頼され、秀忠の死に際しては三代将軍家光の後見を任されたと伝えられます。
幕政の中枢へ
直孝は家光の時代、幕府の重要な政策に関わり、のちの大老にあたる立場で将軍を支えました。井伊家が幕府政治の中心で重きをなす伝統は、直孝の時代に築かれたものです。
彦根城の完成
父直政の時代に計画された彦根城は、直孝の代までに完成しました。現在の彦根城は国宝の天守を持つ城として知られ、多くの人が訪れています。
招き猫の伝説
直孝が鷹狩りの帰りに東京の豪徳寺の前を通りかかったところ、寺の猫に手招きされて寺に入り、その直後に激しい雷雨になったという伝説があります。この話から、豪徳寺は招き猫発祥の地の一つとされています。
豪徳寺と井伊家
直孝はこの縁で豪徳寺を井伊家の菩提寺としたと伝えられます。現在も豪徳寺には井伊家の墓所があり、のちの大老井伊直弼も葬られています。
最期
直孝は1659年に亡くなりました。家康・秀忠・家光・家綱と四代の将軍の時代を生きた人物でした。
井伊家のその後
直孝が築いた井伊家の地位は江戸時代を通じて受け継がれ、幕末には井伊直弼が大老として日米修好通商条約を結ぶことになります。
父直政との違い
父直政が戦場で名を上げた猛将だったのに対し、直孝は戦場での武功とともに、幕政の中枢で将軍を支える政治家としての顔も持っていました。
直孝の評価
直孝は、大坂の陣での武勇と、幕府の重臣としての働きによって、井伊家を譜代大名の筆頭へと押し上げた人物です。招き猫の伝説とともに、今も親しまれています。
このイラストについて
赤い兜と赤い甲冑に身を包み、城と軍勢を背にした姿です。
赤一色の甲冑は、父の井伊直政から受け継いだ「井伊の赤備え」を表しています。直孝はこの赤備えを率いて大坂の陣で戦い、木村重成を討ち取りました。兜の飾りの形は想像による意匠で、実際の井伊家の兜を写したものではありません。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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