信長と秀吉の妻・側室を比較|正室・側室・子どもの数の違いと、跡継ぎ問題への影響

織田信長と豊臣秀吉のイラスト(イメージ)

天下人の織田信長と豊臣秀吉。二人は主君と家臣の関係でしたが、妻や側室、子どもたちのあり方はまったく違いました。子だくさんで、子どもを縁組に使って勢力を広げた信長。子に恵まれず、名家の娘を側室に迎え、養子で一族を補った秀吉。この記事では、正室・側室・子どもを並べて比べ、その違いが織田家と豊臣家の行く末にどう影響したのかを見ていきます。

目次

ひと目でわかる比較表

織田信長豊臣秀吉
正室濃姫(帰蝶)寧々(北政所・高台院)
正室の実家美濃の大名・斎藤道三の娘織田家臣・杉原定利の娘(浅野長勝の養女)
正室の子記録がないいない
主な側室生駒氏(吉乃)、坂氏、お鍋の方 ほか南殿、茶々(淀殿)、松の丸殿(京極竜子)、三の丸殿、加賀殿、三条殿、姫路殿 ほか
側室の出自の傾向尾張・近江などの土豪や有力者の娘主家の織田家や名門大名(京極・浅井・前田・蒲生)の娘
子どもの数男子11人ほど、女子も10人以上とされる(数は諸説)実子は4人(石松丸・女子・鶴松・秀頼。前の2人は諸説)。成人したのは秀頼だけ
子どもの使い方息子を他家の養子に、娘を大名や重臣に嫁がせて縁を結ぶ子が少ないため、養子・養女(秀勝・秀秋・秀家・豪姫など)で一族を補う
跡継ぎ嫡男の織田信忠(生駒氏の子とされる)鶴松(3歳で死去)のあと甥の豊臣秀次、のち秀頼

織田信長の妻と側室

正室・濃姫(帰蝶)

美濃の斎藤道三の娘で、天文17〜18年(1548〜1549年)ごろ、尾張と美濃の和睦のしるしとして信長に嫁いだとされます。「帰蝶」という名は後の時代の書物に出てくるもので、確かな史料には名前も、子どもの記録もほとんど残っていません。そのため、その後どうなったのかは、早くに亡くなった説、離縁説、信長の死後も長く生きたとする説などがあり、はっきりしていません。

生駒氏(吉乃)

尾張の有力者・生駒家の娘で、嫡男の信忠、次男の織田信雄、長女の徳姫を産んだとされます。信長にとって最も大事な側室だったと考えられていますが、「吉乃」という名や信長との出会いの話は『武功夜話』など信頼性に疑問のある書物によるもので、信忠の母についても異説があります。永禄9年(1566年)ごろに亡くなったとされます。

坂氏

三男・織田信孝の母です。信孝は信雄より先に生まれたのに、届け出が遅れて三男にされたという話が伝わりますが、伝承の域を出ません。賤ヶ岳の戦いのころ、信孝が秀吉に背いたため、人質になっていた坂氏は処刑されたとされます。

お鍋の方

近江の小倉氏に嫁いでいましたが、夫が亡くなったあと信長の側室となり、信高・信吉らを産んだとされます。信長の死後は秀吉の保護を受け、のちに淀殿に仕えたとも伝わります。

子どもで結んだ縁

信長は子どもの多さを、そのまま勢力づくりに使いました。長女の徳姫は徳川家康の長男・信康へ、冬姫は蒲生氏郷へ、永姫は前田利家の子・利長へ嫁いでいます。息子たちも、信雄は伊勢の北畠家、信孝は神戸家へ養子に入り、その家を乗っ取る形で伊勢を手に入れました。

豊臣秀吉の妻と側室

正室・寧々(北政所)

織田家臣・杉原定利の娘で、浅野長勝の養女として秀吉に嫁ぎました。結婚は永禄4年(1561年)が通説ですが、近年は永禄8年ごろとする説もあります。子どもはいませんでしたが、加藤清正や福島正則ら若い家臣を育て、秀吉の留守中には家をあずかり、関白の妻として朝廷とのつき合いも担いました。秀吉の家臣団を内側から支えた、まさに「もう一人の主」でした。

名家の娘が並ぶ側室たち

秀吉の側室には、旧主の織田家(三の丸殿=信長の娘、姫路殿=織田信包の娘)、名門の京極家(松の丸殿)、浅井家(茶々)、同僚だった前田家(加賀殿)、蒲生家(三条殿)の娘たちが並びます。低い身分から出世した秀吉が、名家の血筋を身内に取りこもうとした表れと見る説が一般的です。一人ひとりの出自とその後は豊臣秀吉の側室一覧にまとめています。

子どもに恵まれなかった天下人

これだけ側室がいても、秀吉の子どもとして確かなのは、長浜時代の石松丸と女の子(母は南殿とみられ、諸説あります)、そして茶々が産んだ鶴松と秀頼だけです。鶴松は3歳で亡くなり、成人したのは秀頼ひとりでした。くわしくは秀吉の子どもは何人?をどうぞ。茶々が側室になった経緯は茶々はなぜ秀吉の側室になったのかで解説しています。

そのため秀吉は、信長の四男・秀勝、寧々の甥の秀秋、前田利家の娘の豪姫、豪姫の夫となる宇喜多秀家など、養子・養女で一族を補いました。

比べてわかる違い

1. 側室選びのものさしが違う

信長の側室は、地元・尾張や近江の有力者の娘が中心でした。地域の土台を固めるための縁です。秀吉の側室は、旧主や名門の娘が中心で、身分や家柄を補う意味合いが強かったとみられます。

2. 子どもが「外へ広げる力」か「足りないもの」か

信長にとって子どもは、縁組や養子入りで他家を取りこむための大きな力でした。秀吉にとっては、子どもの少なさこそが最大の弱みで、養子や甥の秀次で穴を埋めるしかありませんでした。

3. 正室の存在感が違う

濃姫は史料にほとんど姿を見せません。一方の寧々は、家臣の育成から朝廷とのつき合いまで、豊臣家の運営にはっきりかかわっています。秀吉の家臣団にとって、寧々は欠かせない存在でした。

4. 跡継ぎ問題の行方

信長は信忠という成人した跡継ぎを育てていましたが、本能寺の変で親子がそろって亡くなり、多すぎる息子たちは逆に争いの種になりました。秀吉は鶴松を失ったあと秀次を後継にしましたが、秀頼が生まれると秀次は切腹に追いこまれ、秀吉の死の時点で秀頼はまだ6歳でした。どちらの家も、跡継ぎの問題をきっかけに天下を手放すことになります。

まとめ

子だくさんで縁を広げた信長と、名家の娘を迎えながら子に恵まれなかった秀吉。妻や側室のあり方は、そのまま二つの家の強さと弱さにつながっていました。寧々と茶々の関係については寧々と茶々は仲が悪かった?もあわせてどうぞ。家臣団どうしの比較は織田家臣団と秀吉家臣団を比較で解説しています。

二人の領地の広さは信長と秀吉の領地・石高を比較で、勢力図つきで比べています。

水軍のちがいは信長と秀吉の水軍を比較でくわしく解説しています。

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