とくがわ いえやす
| 地域 | 東海・関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川氏 |
| 大名家 | 徳川氏 |
| 家紋 | 徳川葵 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 金陀美具足 |
| 武将タイプ | 深謀遠慮 |
徳川家康は三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた。幼少期は今川氏、次いで織田氏の人質として過ごすという不遇の時代を送り、桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのを機に独立し、三河国を平定した。信長とは清洲同盟を結んで長年にわたり同盟関係を維持し、姉川の戦いや長篠の戦いなどに援軍として参陣している。
1572年の三方ヶ原の戦いでは、上洛を目指す武田信玄の大軍に無謀にも野戦を挑んで大敗を喫し、恐怖のあまり脱糞したまま逃げ帰ったとされる自画像を描かせて生涯の戒めとしたという逸話が伝わる。この手痛い敗北から多くを学び、以後は無理な戦を避け、慎重かつ着実に勢力を拡大していく戦略へと転換していった。
本能寺の変後は、信長の同盟者としての立場から旧武田領である甲斐・信濃へも勢力を伸ばし、豊臣秀吉台頭後の小牧・長久手の戦いでは局地的に勝利を収めつつも、最終的には秀吉に臣従する道を選んだ。関東移封を命じられると、荒れ地であった江戸を居城と定め、後の徳川幕府の本拠として着実に整備を進めていく。
秀吉の死後、五大老の筆頭として実権を掌握し、1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成らの西軍を破って天下の実権を握った。1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして戦国乱世に終止符を打った。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の句に象徴されるように、忍耐強く機を待つ性格で知られる。
晩年は駿府に隠居して大御所として実権を握り続け、幕府の基礎固めに専念した。鷹狩りや医薬の研究を好み、質実剛健な生活を好んだと伝わる。1616年に没するが、その死後も徳川家による支配は260年余りにわたり続き、戦国という激動の時代を終わらせ、長期にわたる泰平の世を築いた統治者として、家康は今なお高く評価されている。
家康の政権構想は、単に武力で天下を制するだけでなく、長期的に安定した秩序を築くことに主眼が置かれていた。武家諸法度や参勤交代の原型となる仕組みを整え、キリスト教を禁じて鎖国体制の基礎を築くなど、後の江戸幕府260年の統治体系の骨格を自ら築き上げた。また質素倹約を旨とし、贅沢を好まず、薬草の調合や健康法にも精通するなど、長寿と実利を重んじる合理的な性格でも知られる。
三河武士団と呼ばれる本多忠勝、榊原康政、井伊直政、酒井忠次ら「徳川四天王」をはじめとする忠義に篤い家臣団を育て上げたことも家康の大きな功績である。人質時代の辛酸を経験したからこそ培われた忍耐力と、決して驕らず慎重に地歩を固める姿勢は、信長・秀吉という二人の天下人の下で生き抜き、最後に天下を手にするという偉業を成し遂げる原動力となった。
家康の人物像を語る上で欠かせないのが、その徹底した忍耐と自己抑制である。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」の遺訓とされる言葉は、生涯を通じて焦らず機を待ち続けた家康の生き方を象徴している。正室・築山殿や嫡男・信康を、信長の疑念を晴らすために自ら死に追いやらざるを得なかった悲劇も経験しており、その忍従の裏には計り知れない苦悩があったことがうかがえる。
晩年は方広寺鐘銘事件を口実に豊臣家との対立を先鋭化させ、大坂冬の陣・夏の陣を経て豊臣家を完全に滅ぼした。この最後の仕上げをもって、応仁の乱以来百数十年続いた戦国の争乱に終止符を打ち、徳川による265年に及ぶ泰平の世を切り開いた。狸親父と評される老獪さと、乱世を生き抜いた末の統治哲学は、日本史上最も成功した天下人として今なお高く評価されている。

