とりい ただひろ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣・三河武士 |
| 大名家 | 徳川氏 |
| 家紋 | 鳥居笹 |
| 主武器 | 槍・刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦向きの具足 |
| 武将タイプ | 剛勇の三河武士 |
鳥居忠広とは
鳥居忠広とは、徳川家康に仕えた三河武士で、三方ヶ原の戦いにおいて武田の大軍を相手に奮戦し、壮絶な最期を遂げたと伝わる武将である。通称を四郎左衛門といい、剛勇の士として名を残した。生年は定かでないが、家康の重臣鳥居忠吉の四男として生まれ、のちに伏見城で名高い鳥居元忠の弟にあたるとされる。鳥居氏は代々松平家に仕えた三河譜代の家で、忠義に篤い一族として知られていた。若き日の忠広は、三河一向一揆に際して一揆方に身を投じ、一時は主君家康と敵対したとも伝わる。しかし一揆が鎮まると帰参を許され、以後は兄同様に徳川の家臣として家康に仕えていったのである。元亀年間、甲斐の武田信玄が西上の軍を起こし、大軍を率いて遠江へと進んできた。当時の家康はなお若く、その勢力は老練な信玄に遠く及ばず、徳川領は存亡の危機に立たされることとなった。
信玄の軍勢が浜松城の目前を素通りしようとしたとき、家康は打って出て決戦を挑もうとした。将たちの多くが逸る中、忠広は兵力の差を説き、軽々に出撃すべきではないと諫めたと伝えられている。しかし家康は逸る気持ちを抑えられず、忠広の進言を退けて城を出た。こうして元亀3年(1573年)の暮れ、両軍は浜松の北に広がる三方ヶ原の台地で、正面から激突することとなったのである。戦は忠広の危惧した通りの展開をたどった。老練な信玄の巧みな用兵の前に徳川軍は総崩れとなり、多くの将兵が討たれて、家康自身も命からがら浜松城へと逃げ帰る、手痛い大敗を喫したのである。崩れゆく味方の中で、忠広は退く家康を守るべく殿軍を務めたと伝わる。追い迫る武田勢に一歩も引かず、味方の退路を確保せんと戦場に踏みとどまって、なお勇猛に戦い続けたといわれている。
その奮戦の中で、忠広は武田二十四将の一人に数えられる猛将土屋昌続と渡り合った。両者は一騎打ちに及んだと伝わるが、激闘の末に忠広は討ち取られ、三方ヶ原の戦場に果てたとされている。主君を諫めながらも、いざ戦となれば身を捨てて殿軍に立ち、最後まで戦い抜いたその姿は、三河武士の忠勇を体現するものとして語り継がれた。忠広の戦死は元亀3年12月のことと伝わっている。忠広の生涯を伝える確かな史料は乏しく、その事績には後世の脚色も含まれるとみられる。それでもなお、三方ヶ原に散った忠義の武士として、彼の名は徳川草創期の物語の中に確かに刻まれている。
親族・主従・ライバル ― 人物相関
忠広の背後には、鳥居氏の家長である父忠吉の存在があった。今川の人質時代から松平家の財政を守り続けた忠吉は、忠義の家として知られた鳥居一門の礎を築いた人物であり、その血は子らへと受け継がれた。兄には、後に伏見城で壮絶な最期を遂げる鳥居元忠がいた。ともに武勇に秀でた兄弟であり、兄が関ヶ原の前哨で徳川のために散ったのに対し、弟忠広は三方ヶ原で命を懸けた。
忠義に生きた兄弟であった。忠広が身命を賭して守ろうとしたのが、主君徳川家康である。若き日に一向一揆で一度は家康に背きながらも帰参を許された忠広にとって、三方ヶ原での奮戦は、主君への忠節を示す最後の機会となった。その戦場で立ちはだかった宿敵が、甲斐の虎と恐れられた武田信玄であった。老練な信玄の用兵の前に徳川軍は総崩れとなり、忠広の危惧はそのまま現実のものとなって、彼を死地へと追いやることとなった。
忠広が刃を交えた相手が、武田二十四将に数えられる猛将土屋昌続である。両者は一騎打ちに及んだと伝わり、名だたる武田の勇将との激闘の末に忠広は討たれた。その死は、敵の強さをも際立たせるものであった。
逸話・エピソード
三方ヶ原の戦いに先立ち、忠広は主君家康を諫めたと伝わる。兵力の差を説き、軽々に城を出て決戦を挑むべきではないと進言したのである。だが逸る家康はこれを容れず、忠広の危惧は退けられてしまった。進言が退けられてもなお、忠広は主君に従って戦場へ赴いた。諫めた者が真っ先に身を捨てて戦うその姿勢こそ、三河武士の忠勇を体現するものであり、後の世に彼の名を伝える所以となったといえる。戦が忠広の危惧した通りの大敗に終わると、彼は退く家康を守るべく殿軍を務めたと伝わる。
追い迫る武田勢に一歩も引かず、味方の退路を確保せんと踏みとどまって、なお勇猛に戦い続けたといわれている。その奮戦の果てに、忠広は土屋昌続との一騎打ちに敗れて散った。元亀3年12月のことと伝わる。確かな史料は乏しく脚色も含まれるとみられるが、主君を諫めて散った忠臣の物語として今に語り継がれている。

