つきやまどの
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川・今川系 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 徳川葵 |
| 主武器 | 短刀 |
| 衣装・甲冑 | 高級着物 |
| 武将タイプ | 悲劇・気品 |
徳川家康の正室(今川義元の姪)。織田信長への内通・対立構造の中で信長の命により小藪村にて殺害された悲劇の女性。
今川家の一族
築山殿は今川家の一族である関口親永(氏純)の娘です。母は今川義元の妹とも伝えられ、今川家と深いつながりを持つ家の娘でした。
家康との結婚
築山殿は、今川家の人質として駿府にいた若き日の徳川家康と結婚しました。今川家が松平家との結びつきを強めるための結婚でした。
信康と亀姫の母
築山殿は家康との間に、長男の信康と長女の亀姫を産みました。
桶狭間の後
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は今川家から離れて岡崎で独立しました。駿府に残された築山殿と子どもたちは、危うい立場に置かれました。
父の死
家康が今川家から離れたことで、築山殿の父関口親永は今川氏真から責任を問われ、自害したと伝えられます。
岡崎へ
その後、築山殿と子どもたちは人質の交換によって岡崎に迎えられました。しかし築山殿は岡崎城の中ではなく、城の外に住んだともいわれます。
「築山殿」の名
「築山殿」という呼び名は、岡崎の築山という場所に住んだことにちなむといわれます。
家康との別居
家康が浜松城に移った後も、築山殿は岡崎にとどまり、家康とは離れて暮らしました。今川家の一族である築山殿と家康の関係は、複雑なものだったと考えられています。
武田家との内通の疑い
1579年、築山殿は武田家と内通していたとする疑いをかけられました。この疑いは、信康の切腹事件とも結びついています。
最期
1579年、築山殿は家康の家臣によって殺されました。遠江の佐鳴湖の近くで命を落としたと伝えられます。同じ年、子の信康も切腹しています。
「悪女」としての描かれ方
江戸時代以降、築山殿は嫉妬深い悪女として描かれることが多くありました。しかしこうした人物像は、後世の物語によって作られた面が大きいとされています。
近年の見直し
近年は、築山殿を今川家の誇りを持った女性として、また家康と信康の対立に巻き込まれた人物として見直す見方も出ています。
西来院
築山殿の墓は、静岡県浜松市の西来院にあります。
今川家と徳川家の間で
築山殿の生涯は、今川家と徳川家という二つの家の関係が大きく変わる中で翻弄されたものでした。
戦国の女性の運命
築山殿の生涯は、戦国時代の女性が、家と家の結びつきのために嫁ぎ、その関係が変わると厳しい運命に立たされることを示しています。
ドラマや小説での描写
築山殿は、多くの小説やドラマで描かれてきました。その描かれ方は時代によって大きく異なり、人物像についての議論は今も続いています。
亀姫のその後
築山殿の娘の亀姫は、のちに長篠城を守った奥平信昌に嫁ぎました。亀姫は加納の地で長く生き、奥平家の繁栄を見届けています。
築山殿の評価
築山殿は、家康の最初の正室として、信康と亀姫を産んだ女性です。悪女として語られてきた一方で、近年はその実像を見直す動きが進んでいます。
このイラストについて
紫の着物をまとった女性が、夕暮れの景色の中で振り返る姿です。
築山殿は、家康の正室として信康と亀姫を産みましたが、1579年に命を落としました。夕暮れの景色と振り返る姿は、今川家と徳川家の間で翻弄された築山殿の運命をイメージしています。顔立ちや衣装は想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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