ほんだ まさずみ
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に立ち葵 |
| 主武器 | 行政書状・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 高級具足 |
| 武将タイプ | 権謀・敏腕 |
本多正信の長男。家康の側近として駿府大御所政治を取り仕切ったが、後に宇都宮釣天井事件等で失脚。
本多正信の長男
正純は徳川家康の参謀として知られる本多正信の長男として生まれました。父とともに若い頃から家康の側近として仕え、政務の才能を発揮していきます。
駿府の大御所政治
1605年に家康が将軍職を秀忠に譲り、駿府に移って大御所として実権を握ると、正純は駿府で家康の側近筆頭となりました。江戸の秀忠を父正信が、駿府の家康を正純が支えるという形で、本多父子が幕府の中枢を担いました。
大坂の陣と堀の埋め立て
1614年の大坂冬の陣の後、徳川方と豊臣方は和議を結びました。その後、大坂城の堀が埋め立てられましたが、正純はこの交渉や工事に深く関わったとされます。堀を失った大坂城は、翌年の夏の陣で落城しました。
岡本大八事件
1612年、正純の家臣岡本大八が、有馬晴信から多額の賄賂を受け取っていたことが発覚しました。大八は処刑され、晴信も処罰されました。この事件はキリスト教の禁止が強まるきっかけの一つにもなりました。
家康の死と立場の変化
1616年に家康が亡くなり、同じ年に父正信も亡くなりました。正純は将軍秀忠のもとで老中として仕えましたが、秀忠の側近には土井利勝らがおり、家康の側近だった正純の立場は次第に難しくなっていきました。
宇都宮15万5000石
1619年、正純は下野宇都宮15万5000石を与えられました。日光東照宮へ参詣する将軍の宿所としても重要な城で、正純は宇都宮城と城下町の整備を進めました。
山形での改易命令
1622年、正純は改易された最上家の山形城を受け取るため出羽に出向いていました。その最中に、幕府から突然改易を言い渡されます。
「宇都宮釣天井事件」
正純の失脚については、宇都宮城に釣り天井を仕掛けて将軍秀忠を暗殺しようとしたという「宇都宮釣天井事件」が広く知られています。しかしこれは後世の講談などで作られた話で、実際にそのような仕掛けがあった証拠はありません。
失脚の本当の理由
実際の改易の理由としては、幕府の命令に背いたことや、城の改修をめぐる問題などが挙げられています。背景には、秀忠の側近たちとの権力争いがあったとも考えられています。
横手での幽閉
改易された正純は出羽の由利に移され、のちに佐竹家の領内の横手に預けられて幽閉されました。かつて幕府の中枢にいた人物の、厳しい晩年でした。
最期
正純は1637年、横手で亡くなりました。73歳でした。家康の最も近くにいた側近の一人が、代替わりの中で権力の座を追われた生涯でした。
正純の評価
正純は有能な官僚として家康を支え、江戸幕府の基礎づくりに大きく貢献しました。その失脚は、将軍が代わると側近の顔ぶれも入れ替わるという、幕府政治の厳しさを示す出来事として語られています。
このイラストについて
白い鉢巻を締め、甲冑をまとって、地図のような文様の壁を背にした姿です。肩には本多家の家紋「立葵」を思わせる紋が描かれています。
正純は合戦の武将というより、駿府で大御所家康を支えた政務の担い手でした。背景の地図のような壁は、政治の中枢で全国の大名を相手にした正純の役割をイメージしたものです。鋭いまなざしは、才気ある官僚としての正純を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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