信長と秀吉の城を比較|安土城と大坂城・聚楽第・伏見城、天下人の城の違いと運命

織田信長と豊臣秀吉のイラスト(イメージ)

城は、戦国大名の力を目に見える形で示すものでした。織田信長は安土城で「天主」という新しい建物を見せつけ、豊臣秀吉は大坂城・聚楽第・伏見城と、天下人の城を次々に築きました。この記事では、二人の城を、場所の選び方・見せ方・担い手・その後の運命で比べます。

目次

ひと目でわかる比較表

織田信長の城豊臣秀吉の城
代表の城安土城(1576年着工、1579年天主完成)大坂城(1583年着工)、聚楽第(1587年完成)、伏見城(1594年ごろ)
移り方清須→小牧山→岐阜→安土と、攻める方向へ本拠を動かした長浜・姫路のあと、大坂・京・伏見に天下人の城を並べた
場所の選び方琵琶湖の水運と、京・美濃・北陸を結ぶ道が交わる近江西日本の水運と商業の中心・大坂、朝廷のある京
中心の建物「天主」。高層の建物を城の象徴にした「天守」。黒漆と金箔瓦で飾った五重の天守
見せ方天主に狩野永徳の障壁画。町人にも城を見物させ、夜は提灯で照らした黄金の茶室、豪華な御殿。大名や宣教師を案内して見せた
担い手普請奉行の丹羽長秀、絵師の狩野永徳縄張りに関わったとされる黒田官兵衛、絵師の狩野永徳、各地の大名の動員
城下町楽市令を出して商人を集めた大坂に商人を移り住ませ、京は御土居で囲んで町を作り直した
その後本能寺の変の直後に焼失(1582年)聚楽第は1595年に取り壊し、大坂城は1615年の大坂の陣で落城

織田信長の城:攻めるたびに本拠を移す

信長は、本拠を何度も移した大名でした。尾張をまとめる拠点の清須城、美濃攻めのための小牧山城(1563年)、美濃を取って移った岐阜城(1567年)、そして天下に号令するための安土城です。小牧山城では発掘調査で石垣や計画的な城下町の跡が見つかり、のちの安土城につながる城づくりが早くから始まっていたことがわかってきました。

安土城と「天主」

天正4年(1576年)、信長は琵琶湖のほとりの安土山に城を築きはじめ、天正7年(1579年)に天主が完成して移り住みました。天主は地下1階・地上6階の高い建物だったとされ、内部には狩野永徳が描いた障壁画が並びました。石垣で山全体を固め、金箔をはった瓦も使っています。普請奉行を務めたのは丹羽長秀でした。

信長は城を「見せる」ことにも力を入れました。天正10年(1582年)の正月には家臣や町人に城を見物させ、天正9年(1581年)のお盆には天主や道を提灯で照らしたことが『信長公記』に記されています。城そのものが、信長の力を伝える広告だったのです。

安土城の絵を描いた狩野永徳については狩野永徳とは、城下の楽市令については楽市楽座とはでくわしく解説しています。

豊臣秀吉の城:天下を治めるための城をいくつも

秀吉は、長浜城(1574年ごろ)で初めて城持ちになり、中国攻めの拠点として姫路城を改めました。天下人になってからは、目的のちがう城をいくつも並べたのが特徴です。

大坂城:天下人の本拠

天正11年(1583年)、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築きはじめます。黒漆と金箔瓦で飾られた五重の天守、金で飾られた御殿、組み立て式の黄金の茶室。大坂は西日本の水運と商業の中心で、秀吉は商人たちを移り住ませて城下町を大きくしました。築城のくわしい流れは大坂城の築城をわかりやすく解説をどうぞ。

聚楽第:京の政庁

関白になった秀吉は、京に聚楽第を築き、天正15年(1587年)に完成させました。翌年には後陽成天皇を迎え、大名たちに天皇と秀吉への忠誠を誓わせています。のちに甥の豊臣秀次に譲られましたが、秀次事件のあと文禄4年(1595年)に取り壊されました。くわしくは聚楽第の記事で紹介しています。

伏見城・名護屋城

朝鮮出兵のため、肥前に名護屋城を築き(1591〜1592年)、全国の大名の陣屋がまわりに並びました。晩年は京の南の伏見に城を築きます。慶長元年(1596年)の大地震で倒れたあと、近くの木幡山に建て直され、秀吉は慶長3年(1598年)ここで亡くなりました。

年表で見る二人の城

信長と秀吉が築いたおもな城(年は通説による)
信長と秀吉が築いたおもな城(年は通説による)

強さと弱さをくらべる

信長の城の強さ

  • 新しさ:高い天主、山全体を固める石垣、金箔瓦など、のちの城の手本になる工夫を一つの城で見せた
  • 動く本拠:攻める方向に合わせて本拠を移し、家臣にもそれぞれ城を任せた

信長の城の弱さ

  • 一つの城に集中:安土城は信長個人の象徴で、本能寺の変のすぐあとに焼け落ち、残ったのは石垣だけだった

秀吉の城の強さ

  • 役割分担:本拠の大坂城、朝廷とつきあう聚楽第、隠居と政務の伏見城と、目的ごとに城を使い分けた
  • 動員力:全国の大名に工事を分担させ、短い期間で巨大な城を造れた

秀吉の城の弱さ

  • 城が人に結びついていた:聚楽第は秀次とともに消え、伏見城は秀吉の死後に家康の拠点となり、大坂城も大坂の陣で落ちた。いま見られる大阪城は、徳川家が建て直した城の跡に、昭和になって復興された天守である

まとめ

信長は安土城一つに新しさを詰めこみ、「見せる城」で天下人の時代の始まりを示しました。秀吉は大坂・京・伏見に役割のちがう城を並べ、「治める城」で天下を動かしました。どちらの城も主の死とともに力を失ったところに、天下人の城の宿命が見えます。

信長と秀吉の比較は、家臣団・妻・側室・領地・石高・水軍もあわせてどうぞ。

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