大河『豊臣兄弟!』の登場人物ガイド ― 誰がどの役?(第39回「茶々の本心」)
大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、重い病に倒れた秀勝(演・柊木陽太)。秀吉に「つくづく子に恵まれぬ定め」と嘆かせたこの若者は、織田信長の息子で、秀吉の養子となった「於次秀勝(おつぎ ひでかつ)」です。秀勝はこのあとどうなるのか。死因や享年、そして秀勝の死が豊臣家に何をもたらしたのかを解説します。秀吉のまわりに3人もいる「秀勝」の違いも、あわせて整理します。
先に結論
- 何者?:織田信長の四男(五男とする説もある)。幼いころに秀吉の養子となり、羽柴秀勝と名乗った
- このあとどうなる?:病は回復せず、天正13年(1585)12月10日、丹波亀山城(京都府亀岡市)で亡くなる
- 何歳で?:18歳。病名は記録に残っておらず、死因ははっきりしない
- その後:秀勝の名は甥の小吉が受け継ぎ、秀吉の跡継ぎ問題は、甥の秀次と、のちに生まれる茶々の子へと移っていく
於次秀勝とは ― 信長の子にして、秀吉の養子
| 名前 | 羽柴秀勝(幼名・於次丸) |
|---|---|
| 生まれ | 永禄11年(1568)ごろ |
| 父 | 織田信長(四男とされるが、五男とする説も有力) |
| 養父 | 羽柴(豊臣)秀吉 |
| 居城 | 丹波亀山城(京都府亀岡市) |
| 妻 | 毛利輝元の養女 |
| 亡くなった日 | 天正13年(1585)12月10日、18歳 |
於次秀勝は、信長の息子のひとりとして生まれ、子のいなかった秀吉の養子となりました。秀吉がまだ長浜城主だったころのことで、秀勝は近江で秀吉と連名で書状を出すなど、羽柴家の跡継ぎとして扱われていました。主君の息子を養子に迎えることは、秀吉にとって、織田家とのつながりを強める大きな意味を持っていたのです。
信長の葬儀で喪主に ― 秀吉の「切り札」だった若者
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉は同じ年の10月、京都の大徳寺で信長の盛大な葬儀を行いました。このとき喪主を務めたと伝わるのが、15歳ほどの於次秀勝です。
信長の後継者は清洲会議で孫の三法師に決まっていましたが、秀吉は自分の養子である信長の息子を前面に立てることで、「信長の後を取り仕切るのは自分だ」と天下に示したのです。秀勝は、明智光秀の旧領だった丹波を与えられて亀山城主となり、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにも丹波の兵を率いて出陣しました。
天正12年(1584)12月には、中国地方の大大名・毛利輝元の養女と大坂城で婚礼をあげています。秀吉と毛利家を結ぶ大切な縁組でした。
光秀の城を与えられた信長の息子 ― 丹波亀山城
秀勝が城主となった丹波亀山城(京都府亀岡市)は、もとは明智光秀の城でした。光秀は信長の命で丹波を攻め取り、その拠点として天正6年(1578)ごろに亀山城を築きます。そして天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長を討つため出陣したのも、この亀山城からでした。
山崎の戦いで光秀が敗れると、清洲会議を経て、光秀の旧領だった丹波は於次秀勝に与えられ、秀勝は亀山城に入ります。主君・信長を討った光秀の城と領地を、ほかならぬ信長の息子に与える。秀吉にとってこれは、「信長の仇を討ったのは自分であり、その跡を受け継ぐのは信長の子、つまり自分の養子だ」と天下に示す、たいへん象徴的な人事でした。
とはいえ、このとき秀勝はまだ15歳ほど。丹波の実際の治めは、秀吉の家臣たちが支えていたと考えられます。それでも秀勝の名で家臣に領地を与えた書状が残っており、若い城主として丹波を治める立場にあったことがわかります。
石高はどのくらい?
秀勝が丹波でどれほどの石高を持っていたかを示す、はっきりした数字は伝わっていません。一般には「丹波一国を与えられた」と説明されます。目安として、のちの太閤検地では丹波一国はおよそ26万石とされていますが、秀勝の時代の領地がそのまま丹波一国全体だったかどうかは、はっきりしていません。
亀山城のその後
秀勝が亡くなったあとも、亀山城は京都の西の守りとして豊臣家が重んじた城でした。城主は甥の小吉秀勝、さらに小早川秀秋、前田玄以らへと受け継がれます。江戸時代には藤堂高虎の縄張りで大きく改築され、亀山藩の城として明治まで続きました。現在の城跡は宗教法人の大本が管理しており、受付で申し出ると見学できる区域があります。
| 時期 | 亀山城の主 |
|---|---|
| 天正6年(1578)ごろ〜 | 明智光秀(築城) |
| 天正10年(1582)〜13年(1585) | 於次秀勝(信長の子・秀吉の養子) |
| 天正13年(1585)ごろ〜 | 小吉秀勝(秀吉の甥) |
| その後 | 小早川秀秋、前田玄以ら豊臣家の重臣 |
| 江戸時代 | 亀山藩の城(藤堂高虎が天守などを改築) |
このあとどうなる? ― 18歳での死
しかし、その婚礼からわずか1年後、秀勝は病に倒れます。そして天正13年(1585)12月10日、居城の丹波亀山城で亡くなりました。18歳でした。
どのような病だったのかは、記録に残っておらず、はっきりしません。この年、秀吉は7月に関白となり、四国攻めや越中の佐々成政攻め、秀長の大和入りと、羽柴家にとっては大きな出来事が続いていました。その慌ただしさのなかでの、若すぎる死でした。
ちょうど同じころ、徳川家では石川数正が出奔し(11月13日)、11月29日には天正地震が起こっています。第39回から第40回にかけてのドラマの背景で、秀吉は跡継ぎを失うという、もう一つの大きな痛手を負っていたのです。
秀勝の死が豊臣家にもたらしたもの
「織田の血を引く跡継ぎ」がいなくなった
秀勝は、信長の血を引き、しかも秀吉の養子という、織田家と羽柴家の両方をつなぐ存在でした。その秀勝を失ったことで、秀吉のまわりから「織田の血を引く跡継ぎ」がいなくなります。第39回で秀長が「茶々しかいない」と説いたのは、まさにこの空白を埋めるためでした。信長の姪である茶々の子なら、織田の血を豊臣家に取り込むことができるからです。
跡継ぎ候補は甥の秀次へ、そして茶々の子へ
秀勝の死後、秀吉の跡継ぎ候補として重みを増したのが、姉ともの子である秀次でした。そして天正17年(1589)に茶々が鶴松を産むと、跡継ぎ問題は新たな局面を迎えます。鶴松の早世、秀次への関白譲り、秀頼の誕生と秀次の切腹へと続く豊臣家の後継者争いは、秀勝の死から始まったともいえるのです。
「秀勝」の名は甥の小吉へ
秀勝の名と丹波亀山城は、秀次の弟である小吉が受け継ぎ、豊臣秀勝と名乗りました。そのため、史料の上でも二人の秀勝はしばしば混同されています。なお、小吉は於次秀勝が亡くなる前からすでに「秀勝」と名乗っていたとする研究もあり、二人の秀勝が一時期同時にいた可能性も指摘されています。
3人の「秀勝」の違い ― 早見表
秀吉は「秀勝」という名をとても大切にしており、生涯に3人の秀勝がいました。ドラマで秀吉が「秀次も小吉もいる」と言っていた「小吉」も、そのひとりです。
| 石松丸秀勝 | 於次秀勝 | 小吉秀勝(豊臣秀勝) | |
|---|---|---|---|
| 秀吉との関係 | 実子(とされる) | 養子(信長の子) | 養子(姉ともの子・甥) |
| 生きた時代 | 長浜城主時代に生まれ、幼くして亡くなる | 永禄11年ごろ〜天正13年(1585) | 永禄12年(1569)〜文禄元年(1592) |
| 亡くなった年齢 | 幼児 | 18歳 | 24歳 |
| 亡くなった場所 | 長浜 | 丹波亀山城 | 朝鮮出兵中の巨済島(病死) |
| 妻 | ― | 毛利輝元の養女 | 江(浅井三姉妹の三女) |
| くわしくは | 石松丸秀勝の記事 | この記事 | 豊臣秀勝の人物ページ |
3人の秀勝は、いずれも若くして世を去りました。秀吉が待ち望んだ跡継ぎが次々と失われていったことが、のちに茶々の産んだ秀頼への強い執着につながっていきます。
よくある質問
Q. 第39回で病気になった秀勝は、このあとどうなりますか?
A. 史実では回復せず、天正13年(1585)12月10日に丹波亀山城で亡くなります。18歳でした。
Q. 秀勝の死因は何ですか?
A. 病死ですが、病名は記録に残っておらず、はっきりしません。
Q. 於次秀勝が城主だった丹波亀山城は誰の城?
A. もとは明智光秀が築いた城で、本能寺の変の出陣地です。光秀が山崎の戦いで敗れたあと、光秀の旧領・丹波とともに於次秀勝に与えられました。
Q. 秀勝は信長の何男ですか?
A. 一般には四男とされますが、生まれ順の数え方によって五男とする説も有力です。
Q. 秀吉の養子の「秀勝」は何人いますか?
A. 実子とされる石松丸を含めると、秀吉のまわりには3人の秀勝がいました。養子は於次秀勝と、甥の小吉秀勝の2人です。
まとめ
於次秀勝は、信長の子として生まれ、秀吉の養子として信長の葬儀の喪主を務め、毛利家の姫を妻に迎えた、羽柴家の期待の星でした。しかし天正13年(1585)12月、わずか18歳で病のため世を去ります。織田の血を引く跡継ぎを失ったことは、秀吉が茶々を迎え、のちに秀頼へとつながる豊臣家の後継者問題の出発点となりました。第39回の病床の場面は、その転換点を描いたものだったのです。
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