いたくら しげむね
| 地域 | 近畿(京都) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家(江戸幕府)譜代 |
| 大名家 | 板倉家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 能吏・名奉行 |
板倉重宗は、名所司代として知られる板倉勝重の長男である。父の跡を受けて京都所司代となり、元和5年(1619)から承応3年(1654)まで35年にわたって京都を治めた。公平な裁きで知られ、晩年は下総関宿の城主となった。
三河以来の譜代・板倉家
板倉氏は、下野国足利郡板倉の地に起こったとされる。のちに三河国額田郡小美村に住み、松平氏(のちの徳川氏)に仕えた。足利氏の流れをくむ渋川氏の子孫と称したが、系図に途切れがあり、事実かどうかは疑わしいともいわれる。
父の勝重は徳川家康に取り立てられ、慶長年間のはじめに京都所司代となった。まだ豊臣方や朝廷、寺社の力が強い京都をしっかり治め、幕府の支配のしくみを固めた人物である。重宗はこの勝重の長男として、天正14年(1586)に生まれた(15年とする資料もある)。周防守を名乗った。
35年にわたる京都所司代
元和5年(1619)、重宗は父の跡を継ぐように京都所司代に就いた。京都所司代は、朝廷や公家の監視、京都の町の治安、西国の大名の見張りなどを受け持つ重い役職である。
重宗はこの役を承応3年(1654)まで35年間務めた。父子ともに名所司代とたたえられ、その裁きは判断が明快であったと評されている。
障子越しの裁き
重宗の裁判については、ある逸話が伝わっている。重宗は障子をへだてて訴えを聞いた。訴える人の顔を見ると、好き嫌いの心が入りかねない。そこで私心を捨て、公平に裁こうとしたのだという。
このような話が語りつがれたことからも、重宗が京都の人々から信頼された所司代であったことがうかがえる。
関宿藩主となり、子孫は備中松山へ
所司代を退いたのち、明暦2年(1656)に重宗は下総国関宿の城主となった。石高は5万石あまりとされ、資料によって数字が少しずつ異なる。重宗は同じ年の12月に亡くなった(没年を翌年とする資料もある)。
重宗の家はその後、伊勢亀山、志摩鳥羽などを経て、延享元年(1744)に備中松山へ移った。備中松山藩の板倉家は明治維新まで続き、幕末には老中を務めた板倉勝静が出ている。板倉家の代々の当主の墓は、ふるさと三河の長圓寺(愛知県西尾市)に並んでいる。
ゆかりの地
- 長圓寺(愛知県西尾市貝吹町):板倉家の菩提寺。板倉家代々の当主と夫人の墓所がある
- 関宿城跡(千葉県野田市):重宗が晩年に城主となった関宿藩の城
父・板倉勝重
重宗の父・勝重も京都所司代を務めた人物で、名裁きで知られました。親子二代にわたって京の政治を担いました。
京都所司代の役目
京都所司代は、朝廷や公家、寺社を見守り、京とその周りの政治を取り仕切る役職でした。西国の大名の動きにも目を配りました。
大岡政談との関わり
後の時代の名裁きの物語には、板倉父子の話がもとになったものもあるといわれます。
紫衣事件
重宗が所司代を務めていた時期には、幕府と朝廷の関係が揺れた紫衣事件が起きました。所司代は、こうした難しい問題にも向き合いました。
参考にした資料
このイラストについて
このイラストは、京の町並みを見下ろす縁側で、書状を読む重宗を描いています。
扇を手に、落ち着いて書状に目を通す姿で、京の政治を長く担った所司代の思慮深さを表しました。
夕日に照らされた町並みと御所は、重宗が治めた京の都をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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