榊原康政 | 徳川四天王の一人。小牧・長久手の戦いにおいて秀吉を痛烈に批判する檄文を書き、軍事的にも秀吉軍を牽制

さかきばら やすまさ

地域東海
所属勢力・属性徳川家臣
大名家徳川
家紋源氏車
主武器太刀・陣太刀
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ文武両道・果断
目次

榊原康政とは——徳川四天王の一角を担った猛将

榊原康政(さかきばら やすまさ)は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、徳川家康が最も信頼を寄せた股肱の臣として、後世に「徳川四天王」ならびに「徳川十六神将」の一人に数えられた名将として広く知られている。通称を小平太(こへいた)といい、まだ年若いうちから家康直属の精鋭を率いる旗本先手役に抜擢されて幾多の合戦で真っ先に敵陣へ突き入り、その卓越した武勇と裏表のない実直な人柄によって、主君からも同僚からも厚い信望を集めたと伝えられている。

最終的には上野館林十万石を領する堂々たる大名にまで昇りつめながらも、決して権勢を誇示することなく、生涯を通じて徳川家の屋台骨を静かに、そして着実に支え続けた稀有な人物であったといわれている。

生い立ちと榊原家の出自

榊原康政は1548年(天文17年)、三河国上野郷(現在の愛知県豊田市付近)において、松平氏に仕える家臣であった榊原長政の次男として生を受けたと伝えられ、幼少の頃からその聡明さと気概の強さで周囲の目を引いていたという。榊原家はもともと伊勢国の出身とされ、後に三河へと移り住んで松平氏に仕えるようになった一族であったといわれ、康政の代に至ってその名を天下に轟かせ、徳川譜代の名門として大きく飛躍することになった。

次男であったために本来なら家督を継ぐ立場にはなかったが、その並外れた才覚と器量を早くから見込まれ、少年期に家康の近習として召し出されたことが、彼の武将としての運命を大きく切り拓いていく端緒となったのである。

三河一向一揆での初陣

康政が初めて実戦の場に臨んだのは、1563年(永禄6年)に勃発した三河一向一揆の鎮圧においてであったと伝えられており、当時の彼はまだ十六歳前後にすぎない前途ある少年であった。この一揆は家康の家臣団をも二分するほどの深刻な内乱であり、日頃は忠実であった多くの譜代家臣までもが信仰を理由に一揆方へと寝返っていくなかで、康政は一貫して主君家康のもとに踏みとどまって戦い、若年ながら目覚ましい奮戦ぶりを見せたという。

初陣にして主家への揺るぎない忠節と類まれな武勇をはっきりと示したこの戦いは、家康が康政という若者の並々ならぬ器量を強く心に刻み、以後彼を格別に取り立てていく重要な契機になったといわれている。

家康からの「康」の一字拝領

三河一向一揆における康政のめざましい働きを高く評価した家康は、その武功と忠義を深く賞して、自らの名乗りである「家康」から一字「康」を与え、これを彼の名に冠することを許したと伝えられている。主君の名の一字を拝領することは当時の武士にとってきわめて名誉なことであり、これによって彼は「康政」と名乗るようになって、家康の側近としての地位をいっそう確固たるものへと固めていくこととなった。

この逸話は、家康がまだ二十歳をわずかに過ぎたばかりの若さでありながら、少年であった康政の将来性をいち早く見抜き、そこに格別の期待と信頼を寄せていたことを何よりも雄弁に物語るものとして語り継がれている。

旗本先手役への抜擢

康政は成長するにつれてその武勇をいよいよ発揮するようになり、まだ年若いうちから家康直属の精鋭部隊を率いる旗本先手役という、軍中でもきわめて重要な役職に抜擢されたと伝えられている。旗本先手役は戦場において主君の本陣の前面に立ち、真っ先に敵と槍を交える花形であると同時に、最も危険で死と隣り合わせの任務でもあり、家康はこの重責をあえて康政と本多忠勝という二人の若武者に委ねたのである。この抜擢は、康政が単に勇猛であるというだけでなく、部隊を巧みに統率し、危急の場面で冷静に判断を下す将としての器量をも兼ね備えていたことを、主君家康が確かに認めていた何よりの証であったといえよう。

以後、康政は先手役として敵陣に一番槍をつける役目を幾度も果たし、家康が采配を振るう合戦の多くでその名を勇将として刻んでいったと伝えられ、若き日の抜擢がその後の輝かしい武歴の出発点となったのである。

姉川の戦いでの武功

1570年(元亀元年)、織田信長と徳川家康の連合軍が近江国において浅井・朝倉の連合軍と正面から激突した姉川の戦いにおいて、康政は徳川勢の一翼を担って先頭に立ち、勇猛果敢に奮戦したと伝えられている。この合戦で徳川軍は数のうえで勝る朝倉勢を相手に死闘を繰り広げたが、康政は敵の側面から巧みに側背を突く働きを見せて戦局の打開に大きく貢献したといわれ、若き武将としてその名を諸方に高く轟かせることになった。

姉川の戦いは織田・徳川同盟の固い結束を天下に示した記念すべき合戦であり、康政にとっても、三河の内乱を越えて対外的な大規模戦において本格的な武功を刻んだ、きわめて意義深い一戦であったといえる。

三方ヶ原の戦いと苦い敗走

1572年(元亀3年)、上洛を目指して西上する武田信玄の大軍と家康が遠江国の三方ヶ原で激突した戦いは、家康の生涯における最大級の敗戦として今日まで広く知られており、徳川軍にとって忘れ得ぬ苦い記憶となった。この戦いにおいて徳川軍は戦国最強と謳われた武田の騎馬軍団の猛攻の前になすすべもなく総崩れとなり、康政もまた主君の身を守りながら、命がけの苦しい退却戦を強いられることになったと伝えられている。

数多くの重臣が討死していくなかで康政は辛うじて生き延びて家康の再起を支え抜いたが、この惨敗はやがて彼にとっても武田の底知れぬ強さを骨身に深く刻みつける、痛烈きわまりない経験になったといわれている。

長篠の戦いと新時代の合戦

1575年(天正3年)、織田信長と徳川家康の連合軍が三河国長篠において武田勝頼の軍勢を打ち破った長篠の戦いは、鉄砲を大量に投入した革新的な戦術によって、戦国史に画期を刻んだ歴史的な合戦として名高い。かつて三方ヶ原で辛酸を嘗めさせられた武田軍への雪辱ともいえるこの戦いにおいて、康政もまた徳川勢の一員として堂々と参陣し、長年の宿敵であった武田家の主力を打ち砕くための激しい戦いに加わったと伝えられている。

この大勝利は武田家の衰退を決定的なものとするとともに、康政をはじめとする徳川の武将たちにとっても、かつては手も足も出なかった強敵をついに乗り越えた、大きな自信と転機をもたらす一戦となったのである。

本多忠勝との「三河の双璧」

榊原康政を語るうえで決して欠かすことのできないのが、同じく旗本先手役を務めた無二の盟友・本多忠勝との深い関係であり、二人はしばしば人々から「徳川の双璧」として並び称される間柄であった。康政と忠勝はほぼ同じ年頃で、いずれも若い頃から共に家康の先手を担い、数々の凄惨な激戦を肩を並べて戦い抜いた戦友であり、互いにその武勇を競い合いながら徳川軍の攻撃の要をなしていたと伝えられている。猛将としてその名を天下に馳せた忠勝と、抜きん出た武勇に加えて深い思慮と冷静さをも備えた康政は、その異なる資質をたくみに補い合う存在として、家康の強大な軍事力を象徴する二枚看板であったといえよう。

二人の武勇と忠節は生涯を通じて変わることがなく、後の世に至るまで徳川譜代の武を代表する名将として並び語られ続け、その固い友情と競い合いの姿は、三河武士の理想像として今なお人々に慕われている。

酒井忠次・井伊直政と徳川四天王

康政は本多忠勝、そして家康の筆頭家老として家臣団を束ねた酒井忠次、さらに後に頭角を現す若き俊英・井伊直政とともに、後世「徳川四天王」と並び称される四人の重臣のうちの一人に数えられている。最年長にして家中を統率する重鎮であった酒井忠次、比類なき猛将本多忠勝、赤備えの精強な軍勢を率いて武名を轟かせた井伊直政と並び、康政はそれぞれ個性の大きく異なる名将たちのなかにあって、独自の確かな存在感を放っていた。

この四天王はいずれも家康の天下取りの大業を軍事の面から支え抜いた柱石であり、なかでも康政は武勇と実直さ、そして敵をも唸らせる文才までをも兼ね備えた将として、家臣団のなかで重きをなしていたといわれている。

小牧・長久手の戦いの勃発

1584年(天正12年)、織田信長が本能寺に斃れた後の天下の覇権をめぐって、徳川家康は信長の次男である織田信雄と手を結び、天下人への道を急速に駆けのぼりつつあった羽柴秀吉と、尾張・美濃の地で真っ向から対峙することとなった。これがすなわち小牧・長久手の戦いであり、康政もまた家康の主力の一翼として堂々と出陣し、彼の生涯において最も名高く、後々まで語り継がれることになる大きな活躍を見せる舞台へと臨むことになったのである。

この一戦は家康にとって、すでに圧倒的な勢力を築きつつあった秀吉と正面から互角に渡り合った屈指の大戦であり、康政の武名とその不屈の気概が、いよいよ天下に広く知れ渡る決定的な契機となった。

秀吉を弾劾する檄文を発する

小牧・長久手における長い対陣のさなか、康政は敵将である羽柴秀吉の非を鋭く鳴らし、徳川方の掲げる大義の正しさを天下に訴える一通の檄文を自ら草し、これを各地へ広く撒き散らしたと伝えられている。その檄文のなかでは、秀吉がかつて仕えた主君織田家の大恩をあっさりと忘れ去り、幼くして残された織田家の跡目をないがしろにして、あろうことかその地位までも簒奪しようとしていると、痛烈きわまる言葉で厳しく糾弾したといわれている。

武勇一辺倒ではなく、一本の筆をもって敵の正統性そのものを根底から突き崩そうとしたこの大胆な行動は、康政が優れた文才と、鋭く冷徹な政治的感覚をも併せ持っていたことを示す逸話として、今日まで語り継がれている。

檄文が秀吉を激怒させた逸話

康政が放ったこの舌鋒鋭い檄文はやがて羽柴秀吉自身の目にも触れることとなり、自らの卑しい出自や主家への不義理な振る舞いをこれ以上ないほど痛烈に批判された秀吉は、烈火のごとく激しく怒ったと伝えられている。一説によれば、秀吉はこのとき康政の首に多額の懸賞金をかけ、「康政を討ち取った者には破格の恩賞を与えよう」とまで公然と言い放って、その抑えきれぬ怒りを誰の目にもはっきりとわかる形で露わにしたともいわれている。

一介の家臣にすぎない康政が、まさに天下人へと手が届こうとしていた大秀吉をここまで本気で憤らせたというこの逸話は、彼の並外れた胆力と、いささかも臆することのない気概の大きさを、後世に鮮やかに物語るものとなっている。

和睦後、秀吉が康政の才を賞賛したという話

やがて小牧・長久手の戦いは双方の妥協による和睦へと向かい、家康と秀吉の関係もまた時とともに次第に修復されていったが、その後日談として、次のような印象深い逸話が今日まで伝えられている。かつて檄文によって康政に激怒させられたはずの秀吉が、和睦の後にあらためて康政と対面したその折、彼のあふれる才知と忠義に満ちた見事な人物ぶりに深く感嘆し、むしろその働きぶりを手放しで高く賞賛したというのである。

敵ながら天晴れと、かつての宿敵の器量を潔く認めたこの逸話は、康政という人物の底知れぬ魅力と、秀吉の懐の深さや度量の大きさとをともに伝えるものとして親しまれているが、その真偽のほどは必ずしも定かではない。

豊臣政権下での康政と徳川家

小牧・長久手の戦いを経て、家康は大局を見据えて次第に秀吉へと臣従する道を選び、徳川家は豊臣政権のもとで五大老に列するほどの有力大名として位置づけられ、新たな時代の秩序のなかに組み込まれていくこととなった。この時期においても康政は変わらず家康の重臣として主家を陰に日向に支え続け、外交の折衝から軍事の備えに至るまで、さまざまな方面において徳川家の安泰のために力を尽くしていたと伝えられている。

主家が新しい時代の枠組みのなかへと組み込まれていく激動のなかで、康政は少しも揺らぐことのない忠節をもって家康を補佐し、やがて必ず訪れると信じた次なる飛躍の時に向けて、静かに備えを固めていたといえよう。

上野館林十万石の大名へ

1590年(天正18年)、小田原征伐によって関東に覇を唱えた北条氏が滅亡すると、家康は秀吉の命によってその旧領である広大な関東へと国替えを命じられ、江戸を新たな本拠と定めて大きく飛躍していくことになった。この関東入国に際して、康政は上野国館林(現在の群馬県館林市)に十万石という大身を与えられ、名実ともに一国一城の主たる堂々たる大名としての地位を、ここに確立することになったと伝えられている。

館林は江戸の北方を守る戦略上の要衝であり、この重要な地にあえて康政を配したことは、家康が彼の武勇と忠義をいかに深く信頼し、徳川家の要となる守りをその双肩に託していたかを、はっきりと示すものであった。

関ヶ原の戦いと徳川秀忠軍への従軍

1600年(慶長5年)、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、康政は家康の三男であり、後に江戸幕府の二代将軍となる徳川秀忠の軍勢に、経験豊かな軍監格の重臣として従い、これを補佐する役目を担うこととなった。秀忠が率いる徳川の主力軍は中山道を進んで美濃の決戦場へと向かう手はずであり、康政はまだ若く戦の経験に乏しい秀忠をよく支えながら、数万に及ぶ大軍を差配するという、きわめて重い責務を負っていたと伝えられている。

家康が世継ぎである秀忠のかたわらに、あえて歴戦の老臣である康政を付け添わせたのは、次代を担うべき大切な後継者の教育と補佐を、自らが誰よりも信頼を置く忠臣に委ねようとした深い配慮であったといわれている。

上田城で真田に足止めされた秀忠軍

中山道をひたすら西へと進軍していた秀忠の軍勢は、その途上に位置する信濃国の上田城に籠もる、名うての知将である真田昌幸と幸村(信繁)父子の巧みで粘り強い抵抗に遭い、思いもよらぬ足止めを食らうこととなった。わずかな手勢しか持たぬ真田父子の神算鬼謀に翻弄された秀忠軍は上田城の攻略にいたずらに手間取り、その結果として、最も肝心であった関ヶ原の本戦にはついにまったく間に合わないという、致命的な大失態を演じてしまったのである。

この遅参は徳川家にとってきわめて重大な失敗であり、次代の将軍たるべき秀忠の面目を大きく傷つける事態となって、勝利を収めてなお、父である家康の激しい怒りを招く結果となったと伝えられている。

秀忠の遅参を家康との間で取りなす

関ヶ原の本戦にとうとう間に合わなかった秀忠は、父家康の激しい怒りを恐れるあまり、対面を許されることすらままならないという苦しい窮地に追い込まれたが、ここで康政がきわめて重要な役割を果たしたと伝えられている。康政は家康の前に進み出て、此度の遅参はあくまで道中のやむを得ぬ事情によるものであって、決して秀忠一人が背負うべき罪ではないと諄々と説き、こじれた父子の間を辛抱強く取りなして、秀忠を窮地から救い出したといわれている。

主君の大切な世継ぎのために、あえて自らの身を挺してその弁護に努めたというこの逸話は、康政の飾らぬ実直な人柄と、徳川家の行く末を心から案じてやまない深い忠誠心とを、あますところなく伝えるものとして広く知られている。

晩年——権勢を求めず館林に静かに過ごす

徳川家がついに天下を掌握し、世が長い戦乱の時代から泰平の時代へと大きく移り変わっていくなかにあって、康政は幕政の中枢に居座って権勢を振るおうとはせず、封地である館林の地で静かに晩年を過ごしたと伝えられている。若い世代の新たな家臣たちが次々と台頭し、時代の主役が戦場での武功から巧みな政治の駆け引きへと移り変わっていくのを冷静に見て取った康政は、あえて自ら一線を退き、名利をいたずらに追い求めない生き方を選んだといわれている。

戦場を駆けめぐった古き良き三河武士のまっすぐな気風を最後まで失うことなく保ち、いささかも驕ることなく静謐のうちに暮らしたその晩年の姿は、飾り気のない彼本来の人格を、この上なくよく表しているといえよう。

武勇と実直な人柄、そして後世の評価

榊原康政は1606年(慶長11年)、住み慣れた館林においてその波瀾に富んだ生涯を静かに閉じたと伝えられ、享年は五十九であったとされ、武勇と忠義に彩られた実直な一生を、最後まで見事に全うしたのである。戦場にあっては旗本先手役として幾多の激戦の先陣を切り、また机上にあっては天下人秀吉をも震撼させる檄文を草すなど、卓越した武勇と冴えわたる知略を高い次元で兼ね備えた稀有な将として、康政の名は後世に長く語り継がれている。

権力に対しては驚くほど淡白でありながら、主家への忠義だけは誰よりも篤かった康政の生き方は、徳川四天王の一人として天下泰平の礎を築いた名臣の姿として、今なお多くの人々の敬愛を集め続けているのである。

徳川家

主家

家臣団

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