水野忠重 | 家康の叔父。刈谷城主で水野勝成の父

みずの ただしげ

地域東海
所属勢力・属性徳川家臣
大名家徳川
家紋―
主武器太刀・采配
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ堅実・血縁

水野忠重は三河刈谷の水野忠政の九男で、徳川家康の母・於大の方の弟にあたる。天正8年(1580年)に織田信長から刈谷城を与えられ、のち豊臣秀吉を経て家康に従った。関ヶ原の戦いの直前、慶長5年(1600年)に口論の末に刺殺された。

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水野家と家康

水野忠重は天文10年(1541年)の生まれである。父は三河刈谷の水野忠政で、その九男にあたる。通称は藤十郎、惣兵衛。

姉の於大の方は松平広忠に嫁ぎ、徳川家康を産んだ。このため忠重は家康の叔父になる。水野家の当主は兄の信元が継ぎ、尾張の織田信長と結んでいた。

水野氏は尾張と三河の境に勢力を持つ一族で、刈谷と尾張の緒川を拠点とした。今川氏と織田氏にはさまれた位置にあり、どちらにつくかが家の存続を左右した。信元が織田方についたことで、水野家は信長と家康の双方と深く結びつくことになった。

刈谷城主となる

兄の信元は天正3年(1575年)末に、信長の命で殺されたとされる。その後、天正8年(1580年)に忠重は信長に属し、兄の旧領である三河の刈谷城(今の愛知県刈谷市)を与えられた。

本能寺の変の後、忠重は豊臣秀吉の家臣となった。のちに家康のもとへ戻っている。忠重の家は刈谷を拠点として続き、水野家の本流としての立場を保った。

子の水野勝成は若いころに父と対立して家を出たと伝わるが、のちに家康に仕え、忠重の死後に刈谷を継いだ。勝成はさらに大坂の陣の後、備後福山藩の初代藩主となった。

池鯉鮒での死

慶長5年(1600年)7月19日、忠重は三河池鯉鮒(今の愛知県知立市)で堀尾吉晴をもてなしていた。その席で同行の加賀井重望と口論になり、刺し殺された。60歳であった。関ヶ原の戦いの2か月ほど前のことである。

加賀井重望は美濃加賀野井城主の家の出で、このとき西軍の石田三成に通じていたともいわれる。事件の場にいた堀尾吉晴も負傷したと伝わる。ただし口論の原因などの詳しい経緯には諸説がある。

ゆかりの地

  • 刈谷城跡(亀城公園、愛知県刈谷市):忠重が城主を務めた水野氏の城

参考にした資料

徳川家

主家

家臣団

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