ないとう いえなが
| 地域 | 三河・上総 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川氏家臣(譜代) |
| 大名家 | 内藤家(佐貫藩) |
| 家紋 | 下り藤 |
| 主武器 | 弓 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 譜代の忠臣 |
内藤家長は徳川家康に仕えた三河以来の家臣である。天正18年(1590)に上総国佐貫城主となり、2万石を与えられた。慶長5年(1600)、鳥居元忠らとともに伏見城を守り、西軍に攻められて命を落とした。
三河の内藤家に生まれる
家長は天文15年(1546)、徳川家の家臣・内藤清長の長男として生まれた。幼名は金一郎、通称は弥次右衛門である。内藤家は松平氏(のちの徳川氏)に古くから仕えた三河の家である。
永禄6年(1563)に三河一向一揆がおこると、家長は家康方として鎮圧に働いたとされる。
家康の戦いに従う
家長は家康のおもな合戦に加わった。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小幡での戦いで手柄を立てたと伝わる。
天正18年(1590)、家康が関東へ移ると、家長は上総国の佐貫城を与えられ、2万石を領した。佐貫城は今の千葉県富津市にあった城で、それまで里見氏などが争った場所である。家康が房総の里見氏をおさえるための要の城でもあった。
内藤家は徳川家の中でも古参の家であり、一族からは家康の重臣が何人も出ている。家長が関東移封のときに2万石という大きな領地を得たのも、内藤家が長く徳川家に尽くしてきたことと、家長自身の働きが認められたためと考えられる。
伏見城の戦いと内藤家のその後
慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝を討つため東へ向かうと、家長は鳥居元忠らとともに京都の伏見城の守りを任された。石田三成らの西軍が大軍で城を囲み、城兵は少ない人数で戦い続けた。
8月1日に伏見城は落ち、家長も命を落とした。55歳だった。討死とも、自刃したともいわれる。
家長の領地は嫡男の内藤政長が受け継いだ。政長は慶長7年(1602)に1万石を加えられて3万石となり、大坂の陣での働きもあって、元和8年(1622)に陸奥国の磐城平へ7万石で移った。その後、内藤家は日向国延岡へ移り、延岡藩主として幕末まで続いた。
伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦である。城を守った鳥居元忠らは、はじめから援軍が来ないことを覚悟していたとされる。城兵が10日あまり戦い続けて西軍を引きつけたことは、家康が軍勢を整える時間を生んだ。家長もこの守りに命をささげた譜代の家臣の一人である。
ゆかりの地
- 佐貫城跡(千葉県富津市佐貫):家長が天正18年から城主をつとめた城。
参考にした資料
内藤家長とは
内藤家長は、三河以来の徳川家の家臣で、弓の名手として知られた武将です。
弓の名手
家長は、弓にすぐれ、戦場でその腕前を見せたと伝えられます。
伏見城の戦い
慶長5年(1600年)、家長は鳥居元忠らとともに伏見城を守り、西軍の大軍と戦って討死しました。
内藤家のその後
家長の子・政長は、のちに陸奥の磐城平藩の藩主となりました。
評価
家長は、家康のために伏見城で命をかけて戦った忠臣です。その忠義によって、内藤家は江戸時代の大名として続きました。
このイラストについて
このイラストは、煙の上がる城を背に立つ家長を描いています。
背負った矢と、静かな中にも強い目つきで、弓の名手として知られた武将の覚悟を表しました。
燃える城と煙は、家長が最期を迎えた伏見城の戦いをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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