明石全登 | 宇喜多秀家の筆頭家老(明石掃部)。関ヶ原・大坂の陣において熱狂的なキリシタン武士集団を率いて鬼神の如く奮戦

あかし たけのり

地域中国・近畿
所属勢力・属性宇喜多・豊臣系
大名家宇喜多
家紋十字架
主武器太刀・十字架
衣装・甲冑漆黒具足
武将タイプキリシタン・名将
目次

明石全登とは

明石全登(あかしたけのり、あるいはてるずみとも読まれる)は、備前を治めた大名宇喜多秀家に仕え、その筆頭家老として広大な家中を束ねた戦国末期から江戸初期にかけての武将であり、通称を掃部(かもん)といった。
熱心なキリシタンとして知られ、洗礼名はジョアン(ジュストとする説もある)と伝わり、屋敷に宣教師を匿うほど深く信仰に生きた人物であった。
関ヶ原の戦いでは西軍宇喜多勢の主力を率いて奮戦し、のちには大坂の陣で豊臣方に身を投じ、真田信繁らとともに徳川方へ最後の一撃を挑んだと語り継がれている。
大坂落城のあとその消息はぷっつりと途絶え、戦死したとも遠く落ち延びたとも諸説が入り乱れ、最期は今なお深い霧に包まれた謎多き武将である。

備前明石一族の出自

明石氏は播磨の名門赤松氏の流れをくむ一族と伝えられ、赤松円心の血筋に連なる家柄で、備前の地に根を張った由緒ある武門であったとされる。
一族は単なる武士にとどまらず、領内の銅山経営にも深く関わった技術と経済に通じた集団であったともいわれ、そうした背景が家の富と実力を支えたと考えられている。
全登の父は明石行雄といい、はじめは備前の実力者浦上宗景に仕えていたが、下剋上の波のなかで台頭する宇喜多直家のもとへと主家を移していった。
全登自身の生年を確実に伝える史料は残っておらず、永禄年間の後半に生まれた可能性が高いと推測されるにとどまり、その前半生の多くは霧の中にある。

宇喜多家中での立場

父行雄が宇喜多直家に仕えて以降、明石氏は宇喜多家中で重きをなし、行雄は数万石という大身の知行を与えられる有力な重臣へと成長していった。
全登は父の跡を継いで和気郡の城の主となり、若くして宇喜多家の家老に列し、主家を支える柱石のひとりとしての道を歩みはじめた。
当時の宇喜多家は、直家の子である宇喜多秀家がわずか二十代の若さで豊臣政権の五大老に列するほどの、備前岡山を中心とした西国屈指の大大名であった。
その大身の主家にあって明石一族は重臣中の重臣と目され、全登は主君秀家からの厚い信任を背に、家中で確固たる地位を築いていった。

筆頭家老としての働き

慶長4年、西暦1599年、宇喜多家では家中を二分する大騒動が起こり、執政の座にあった重臣が殺害され、これに関わった有力な家臣たちが相次いで家を去る事態となった。
世に宇喜多騒動と呼ばれるこの内紛は、若い主君秀家のもとで家中の統制が揺らいだ深刻な出来事であり、大大名宇喜多家の屋台骨を大きく軋ませた。
混乱のなかで全登は新たな家宰として抜擢され、動揺する家中を取りまとめ、乱れた組織を立て直す重責をひとりで背負うこととなった。
このとき全登は三万石を超える知行に加え、豊臣家からの直臣としての扱いも受けて、あわせて十万石ともいわれる大きな力を託され、名実ともに宇喜多家の柱となったと伝わる。

キリシタンとしての信仰

全登は戦国武将のなかでもとりわけ熱心なキリシタンとして知られ、文禄年間の半ばごろに洗礼を受け、以後その信仰を生涯にわたって貫いたとされる。
洗礼名はジョアンと伝えられるが、ジュストとする説もあり、その表記や読みをめぐっては後世の史料のあいだで揺れがみられる。
彼はみずからの屋敷に宣教師を住まわせて保護するほどの篤い信者であり、領内における布教の後ろ盾として、宣教師たちから深く頼りにされる存在であった。
キリスト教の教えでは自害が重い罪とされたため、この信仰こそがのちの苦難の日々においても、彼が命を絶たず生き抜こうとする支えになったともいわれている。

二十六聖人と宣教師の保護

慶長元年、西暦1596年、豊臣政権による弾圧のなかで捕らえられた二十六人のキリシタンが、処刑地である長崎へと護送されていった痛ましい出来事があった。
のちに日本二十六聖人として崇敬されるこの殉教者たちが宇喜多領を通過する際、その護送の役を全登みずからが担ったとも伝えられている。
信仰の道をゆく者たちが死地へ引かれてゆく姿を間近に見たこの経験は、全登の胸に深く刻まれ、彼の信仰を一層強固なものにしたのではないかと語られる。
厳しい禁教の時代に入ってからも、彼はイエズス会の宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスらを自邸に匿い、危険を冒してまで宣教師との絆を断とうとしなかったという。

関ヶ原への道

慶長5年、西暦1600年、天下は徳川家康と、その専横をよしとしない諸大名とのあいだで大きく二つに割れ、日本を二分する未曾有の合戦へと突き進んでいった。
豊臣政権の五大老に列する主君宇喜多秀家は、石田三成を中心とする西軍の主柱のひとりとして立ち上がり、宇喜多勢は西軍屈指の大兵力として戦場へ向かった。
筆頭家老たる全登は、この大戦において宇喜多勢の指揮を実質的に担う立場にあり、主君の名代として一軍を率いる大役を託されていた。
石田三成が掲げた大義に宇喜多家が加わったことで、西軍はその屋台骨に厚みを増したが、同時にそれは主家の命運を賭けた大博打でもあった。

杭瀬川の前哨戦

関ヶ原本戦を目前にした9月14日、両軍の緊張が高まるなかで、西軍は東軍の出方を探るべく杭瀬川のほとりで小競り合いを仕掛けた。
この前哨戦では、石田三成の名臣島左近らとともに宇喜多勢も加わり、東軍の中村一栄の隊を巧みに誘い出して打ち破る鮮やかな勝利をおさめたと伝わる。
敵の一部を討ち取ってみせたこの一戦は、決戦を控えた西軍の将兵の士気を大いに高め、明日への希望をつなぐ縁起のよい緒戦となった。
全登の采配ぶりもこの前哨戦のなかで発揮されたとされ、来たるべき本戦での宇喜多勢の奮闘を予感させる働きであったと語り継がれている。

関ヶ原本戦での奮戦

9月15日、霧の晴れた関ヶ原に東西両軍が激突し、全登は宇喜多勢のおよそ半数にあたる八千の兵を率いて先鋒に立ち、敵陣へ猛然と挑みかかった。
彼が相対したのは東軍先鋒の福島正則の大軍であり、全登は鉄砲を巧みに用いた戦術で幾度も敵の攻勢をはね返し、一歩も引かぬ激戦を繰り広げたと伝わる。
宇喜多勢の奮戦ぶりは西軍でも際立っており、戦況はしばらく一進一退の膠着をみせ、勝敗の行方はなお定まらぬかにみえた。
しかし戦の半ば、松尾山に布陣していた小早川秀秋が突如として西軍へ牙を剥き、その裏切りを機に戦局は一気に崩れ、宇喜多勢もついに支えきれなくなっていった。

主君を諫めた殿軍

味方の裏切りによって戦線が総崩れとなるなか、主君宇喜多秀家は怒りに我を忘れ、裏切り者の小早川の陣へみずから斬り込もうと馬を進めたと伝わる。
このとき全登は主君の馬前に立ちはだかり、ここで犬死にしてはなりませぬと必死に諫め、再起を期して大坂城へ落ち延びるよう血を吐く思いで進言したという。
主君を辛くも押しとどめた全登は、みずから殿軍を買って出て、追い迫る敵勢のなかへ踏みとどまり、秀家が戦場を離脱する時を稼いだと語られている。
この一場面には、忠義に篤く冷静沈着な全登の人となりがよく表れており、家臣の鑑ともいうべき振る舞いとして後世に長く語り継がれることとなった。

宇喜多家の改易と主家の悲運

関ヶ原の敗戦により西軍に与した宇喜多家は改易となり、備前岡山の広大な所領はことごとく召し上げられ、西国屈指の大名家は一夜にして崩れ去った。
戦場を落ち延びた主君秀家は各地を潜行したのち捕らえられ、命こそ助けられたものの、はるか南海の孤島である八丈島へと流される身となった。
かつて五大老に名を連ねた貴公子は、以後およそ半世紀にわたって流人として島で暮らし、ついに再び本土の地を踏むことなく生涯を終えたと伝わる。
仕えるべき主家を失い、拠って立つ所領も消え去ったことで、全登もまた家臣たちを養う地盤を根こそぎ奪われ、宛てのない流浪の身へと転落していった。

流浪の日々

主家改易ののち、全登は行方をくらませ、旧領との連絡も断って各地をさすらう身となり、その足取りは史料のうえでも定かではなくなっていく。
一説には、彼は同じくキリシタン大名として知られた黒田如水(官兵衛)のもとに庇護を求め、如水の弟でやはり篤い信者であった黒田直之に匿われたとも伝えられる。
やがて如水が世を去り、家督を継いだ黒田長政がキリスト教を厳しく禁じるようになると、全登は身の置きどころを失い、九州の田中忠政を頼っていったともいわれる。
信仰を捨てずに生きようとすればするほど、禁教へと傾いてゆく世のなかで居場所は狭まり、彼の流浪はいよいよ先の見えないものとなっていった。

大坂の陣への参陣

慶長19年、西暦1614年、豊臣家と徳川家の対立がついに戦火となり、大坂城には全国から浪人たちが続々と馳せ参じ、天下分け目の再戦の火蓋が切られようとしていた。
全登もまた豊臣秀頼の招きに応じて大坂城へ入り、真田信繁や後藤基次ら名だたる浪人衆と肩を並べ、豊臣方の主力の一角を担うこととなった。
彼が最後の戦いに身を投じた動機には、失われた主家への忠義に加え、禁教のなかで信仰を守り抜こうとする篤いキリシタンとしての思いがあったとも語られている。
かつての大身の家老が一介の浪人として決死の籠城に加わる姿は、時代の激変に翻弄されながらもなお己の筋を通そうとする、戦国武士の生きざまそのものであった。

キリシタン部隊を率いて

大坂城に集った浪人衆のなかで、全登は同じ信仰を抱く者たちを率いる立場にあったとされ、彼の手勢はキリシタン部隊とも呼ばれ、独特の結束を誇ったと伝わる。
禁教下にあって表立って信仰を掲げられぬ時代に、十字の旗のもとに集った兵たちは、死を恐れぬ覚悟と強い連帯感で結ばれていたとも語り継がれている。
自害を罪とする教えを奉じる彼らにとって、この戦いは単なる主家への奉公ではなく、信仰を賭けた聖なる戦いという色合いをも帯びていたのかもしれない。
全登みずからが率いるこの部隊は、豊臣方のなかでも際立った士気を示し、真田信繁らの奮戦と並んで大坂の陣を彩る印象深い存在となったと伝わる。

道明寺の戦い

慶長20年、西暦1615年の夏の陣において、全登は大和路から迫る徳川方の大軍を迎え撃つべく、道明寺方面での激戦に身を投じることとなった。
この戦いでは味方の勇将後藤基次が孤軍奮闘のすえに討ち死にするという痛手を被ったが、全登の隊は退かずに敵中へ突き入り、伊達政宗の軍勢らと激しく渡り合った。
混戦のなかで全登隊は巧みに敵陣を攪乱し、味方どうしの同士討ちを誘発させるほどに徳川方を混乱に陥れたと伝えられ、その戦いぶりは敵味方に強い印象を残した。
もっとも、この激闘のなかで全登自身も傷を負ったとされ、豊臣方は次第に兵を消耗させながら、なお最後の決戦へと追い込まれていった。

天王寺の戦いと家康本陣

夏の陣の最終局面となった天王寺口の決戦で、全登は三百余の決死隊を密かにまとめ、混戦に乗じて徳川家康の本陣へ突入するという大胆な策を胸に秘めていたと伝わる。
総大将さえ討ち取れば戦の流れは一変するという一縷の望みに賭けた捨て身の企てであり、真田信繁が家康本陣へ肉薄した奮戦と並ぶ、豊臣方最後の希望であった。
しかし頼みとする友軍が次々と崩れ去ったことで好機は失われ、全登の決死隊もついに本懐を遂げることはかなわなかったとされる。
それでも全登は、水野勝成や松平忠直、藤堂高虎らが幾重にも敷いた徳川方の包囲網の一角を突き破り、乱戦の戦場から離脱したと伝えられている。

謎に包まれた最期

大坂城が炎に包まれて落城したのち、全登の消息はふっつりと途絶え、その最期をめぐっては数多くの説が入り乱れて、いまだ定説をみないままである。
徳川方の複数の家伝は、全登はこの戦いで討ち取られたと記し、その首級を挙げたと称する者や、獲った首が近江の佐和山へ送られたとする記録も残されている。
一方で、九州へと落ち延びたとする伝えや、遠く南蛮へ逃れたとする説もあるが、南蛮渡航についてはイエズス会の記録にその名がみえないことから、後世の空想であろうと退けられている。
戦死とも生存ともつかぬまま史料が食い違うところに、この武将の生涯を覆う霧の深さがあり、それがかえって後世の人々の想像をかきたててやまない。

生存伝説と明石狩り

落城後、江戸幕府は全登の行方を強く警戒し、各地でその探索をおこなったと伝えられ、これはのちに明石狩りとも呼ばれ、彼の存在がいかに脅威とみなされていたかを物語る。
生き延びたとする伝承は各地に残り、嫡子とともに九州へ逃れたとするものや、四国を経て土佐の山間の村へ身を隠したとするものなど、その落人譚は実に多彩である。
東北の地には、大坂落城ののち仙台の伊達政宗に匿われ、さらに津軽の弘前城内に保護されて余生を送ったとする一族の家伝も伝えられている。
秋田の地には全登の子孫を称する一族が存在すると伝わり、真偽はさておき、そうした言い伝えが各地に根づいていること自体が、この武将の名の重みを今に伝えている。

主君宇喜多秀家との絆

全登の生涯は、主君宇喜多秀家との深い結びつきを抜きにしては語れない。若くして五大老に列した秀家は、家中の実務を全登ら重臣に大きく委ね、両者は主従の枠を超えた強い信頼で結ばれていたと伝わる。宇喜多騒動で多くの重臣が家を去ったのちも全登が留まり、動揺する家中を支え続けたことは、その忠節の厚さをよく物語っている。関ヶ原で主君の暴走を身を挺して押しとどめ、殿軍を務めて秀家を落ち延びさせた一件は、二人の間に培われた絆の深さの証しでもあった。秀家がはるか八丈島へ流されたのちもなお、全登は最後まで旧主への義を胸に抱いて生き続けたのである。

備前の鉄砲と宇喜多勢の強さ

全登が率いた宇喜多勢は、備前に根づいた鉄砲の扱いに長けた精強な軍団として知られていた。関ヶ原において全登が鉄砲を巧みに用いて福島正則の大軍を再三押し返したと伝わるのも、日頃から鍛え上げられた鉄砲隊の力があってこそであった。備前は良質の鉄や鉄砲鍛冶に恵まれた土地であり、明石一族が銅山の経営など産業にも通じていたことは、こうした軍事力を支える経済的な基盤ともなっていたと考えられている。

明石全登という人物

明石全登は、主家宇喜多氏の筆頭家老として家中を束ねた統率者であり、内紛に揺れる組織を立て直した手腕からは、冷静沈着で信頼に足る人柄がうかがえる。
関ヶ原で主君秀家の暴走を身を挺して押しとどめた逸話には、忠義に篤く、危急の際にも大局を見失わぬ武将としての器量がよく表れている。
また、禁教の嵐が吹き荒れる時代にあってなお信仰を捨てず、宣教師を匿い、キリシタン部隊を率いて最後の戦いに臨んだ姿は、己の信念を貫き通した一本気な生きざまを映し出している。
確かな史料に乏しく、その通称や名すら後世の編纂物に頼らざるをえない謎多き人物でありながら、忠義と信仰を胸に乱世を駆け抜けた明石全登の名は、今なお人々の心をとらえて離さない。

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