たけなか しげのり
| 地域 | 美濃国不破郡(岐阜県垂井町) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 斎藤氏→織田氏(羽柴秀吉の与力) |
| 大名家 | 竹中氏 |
| 家紋 | 丸に九枚笹 |
| 主武器 | 槍・刀 |
| 衣装・甲冑 | 戦国期の当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将 |
竹中重矩は、戦国時代の美濃国の武将で、軍師として名高い竹中半兵衛(重治)の弟である。通称は久作。元亀元年(1570)の姉川の戦いで、浅井家の勇士・遠藤直経を討ち取ったことで知られる。天正10年(1582)、本能寺の変の後の混乱のなかで一揆と戦い、討死した。
美濃の竹中家に生まれる
重矩は天文15年(1546)に生まれた。父は竹中重元で、兄が竹中半兵衛重治である。通称は久作といい、彦作とも呼ばれた。
父の重元は、永禄元年(1558)に岩手氏を攻めて追い出し、不破郡の岩手(垂井町)に移った。そして周辺一帯を治める領主となり、翌年には菩提山に城を築いた。重元は永禄5年(1562)に亡くなり、半兵衛が家を継いだ。
姉川の戦いの手柄
竹中兄弟ははじめ美濃の斎藤龍興に仕えた。斎藤氏が滅んだあとは織田信長に従い、半兵衛は羽柴秀吉の与力となった。重矩も兄とともに秀吉のもとで戦った。
元亀元年(1570)の姉川の戦いでは、浅井家の遠藤直経が織田方の兵になりすまし、信長の本陣に近づいた。重矩はもともと直経と顔見知りだったため、その正体を見破り、討ち取ったという。ただし、不破矢足が討った首をもらい受けたものだという話も伝わっている。
兄の死と重矩の最期
天正7年(1579)、兄の半兵衛は播磨の三木城攻めの陣中で、36歳で亡くなった。家は半兵衛の子、重門が継いだ。重門は天正元年(1573)の生まれで、まだ7歳ほどの子どもだった。
天正10年(1582)6月、本能寺で信長が討たれると、各地で一揆が起こり世の中は大きく乱れた。重矩は地元の美濃国不破郡で起きた一揆と戦い、討死した。37歳だったとされる。
竹中家のその後
おいの重門は、のちに秀吉の一代記『豊鑑』を書いたことで知られる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍から東軍に移り、西軍の小西行長を捕らえた。
竹中家は江戸時代も岩手の地にとどまり、陣屋を構えて続いた。菩提寺の禅幢寺には、半兵衛や父の重元とともに、重矩の墓も残されている。
ゆかりの地
- 禅幢寺(岐阜県不破郡垂井町岩手):竹中氏の菩提寺。重矩や兄半兵衛、父重元の墓がある
- 菩提山城跡(岐阜県不破郡垂井町岩手):父重元が築いた竹中氏の山城
参考にした資料
竹中重矩とは
竹中重矩は、美濃の竹中家の出身で、竹中半兵衛(重治)の弟です。
兄・半兵衛
兄の半兵衛は、秀吉の軍師として知られる人物で、知略にすぐれていました。
姉川の戦い
重矩は、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで手柄を立てたと伝えられます。
兄の死
半兵衛は、天正7年(1579年)、播磨の三木城攻めの陣中で病のため亡くなりました。
評価
重矩は、名高い兄・半兵衛を支えた竹中家の一人として、戦場で手柄を立てた武将です。
このイラストについて
このイラストは、燃える戦場で、槍を構える若い重矩を描いています。
乱れた髪と鋭い目つきで、戦場で手柄を立てた若武者の勢いを表しました。
夕焼けの空と炎は、姉川の戦いの激しさをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
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美濃の不破郡を本拠とした家。竹中重元の子・重治(半兵衛)は、1564年にわずかな人数で斎藤龍興の稲葉山城を乗っ取ったことで知られる。
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