小田鎮光 | 肥前蓮池城主、龍造寺隆信に討たれる

小田鎮光のイラスト(イメージ)

おだ しげみつ

地域肥前(佐賀)
所属勢力・属性肥前の国人(龍造寺氏・大友氏)
大名家小田家
家紋―
主武器刀・槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ国人領主

小田鎮光は、肥前国神埼郡の蓮池城(いまの佐賀市)を本拠とした国人・小田氏の当主である。龍造寺隆信に従ったが、大友氏との間でゆれ動き、元亀2年(1571)に隆信によって討たれた。

目次

蓮池城と小田氏

小田氏は、常陸の小田氏と同じ一族の流れとされる。応永年間に小田直光が蓮池に下り、蓮池城(小曲城とも)を築いたと伝わる。蓮池は佐賀平野の東部にあり、筑後川に近い水運の要所であった。

鎮光の曾祖父にあたる小田資光は、龍造寺氏と対立しながら有力な在地領主として力をのばした。しかし小田氏が味方した大友氏が佐賀攻めで敗れると、龍造寺氏に降った。資光はその落城を見て怒り、自害したと伝わる。

父・政光の戦死

鎮光は蓮池城主・小田政光の子である。永禄元年(1558)11月、龍造寺隆信が江上武種を攻めたとき、政光は先陣を命じられた。政光は忠誠を示そうと奮戦したが、隆信は援軍を出さず、政光は戦場で討ち死にした。

隆信はそのすきに蓮池城を急襲し、城は龍造寺氏のものとなった。政光の老臣・深町理忠が城を守るあいだに、鎮光・朝光・増光ら政光の子と家人たちは筑後の三潴郡へ落ちのびたという。

龍造寺氏と大友氏のあいだで

鎮光は永禄2年(1559)に旧領へ戻り、龍造寺氏に属した。隆信の養女(実父は龍造寺胤栄)を妻にむかえている。しかし永禄8年(1565)ごろには龍造寺氏と敵対する勢力と結んだ。永禄10年(1567)には多久の梶峰城へ移るよう命じられた。

永禄12年(1569)と翌年、大友氏が佐嘉城を攻めると、鎮光は大友方として加わった。大友軍が今山の戦いで敗れると、鎮光は筑後へ逃れた。

謀られた最期

元亀2年(1571)4月9日、鎮光は隆信に謀られた妻からの手紙によって佐嘉へ呼びもどされ、弟の賢光とともに殺されたと伝わる。蓮池城はその後、龍造寺氏をへて鍋島氏のものとなった。江戸時代には佐賀藩の支藩・蓮池藩の陣屋が置かれている。

小田氏の記憶は、いまも佐賀の地に残る。曾祖父・資光の墓は、もとは蓮池の徳恩寺にあったが、のちに龍津寺へ移された。墓には小田氏の業績をたたえる塔が立っている。

ゆかりの地

  • 蓮池城跡(蓮池公園、佐賀県佐賀市蓮池町):小田氏の居城。水堀の跡が残る
  • 龍津寺(佐賀県佐賀市):曾祖父・小田資光の墓がある

参考にした資料

小田鎮光とは

小田鎮光は、肥前の蓮池城を本拠とした小田家の当主です。

蓮池城

蓮池城は、今の佐賀市にあった城で、佐賀平野の東部を押さえる場所にありました。

大友家と龍造寺家の間で

鎮光は、大友家と龍造寺家の間で揺れ動きました。名前の「鎮」の字は、大友義鎮から与えられたものと考えられます。

評価

鎮光は、大友家と龍造寺家のはざまで家を守ろうとした肥前の国衆の当主です。その最期は、龍造寺家の勢力拡大の厳しさを物語っています。

このイラストについて

このイラストは、山と陣を背に、軍配を掲げる鎮光を描いています。

軍配を高く掲げる姿で、兵を率いた当主の姿を表しました。

霧の立つ山々と城は、小田家が治めた肥前の蓮池のあたりをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

龍造寺家

肥前の国人で、もとは少弐氏の家臣だった。龍造寺隆信が家督を継ぐと少弐氏を滅ぼし、1570年の今山の戦いで大友軍の大軍を夜襲で破って肥前の統一へ進んだ。その後、筑前・筑後・肥後などにも勢力を広げ、「五州二島の太守」と称された。

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