信長と秀吉の領地・石高を比較|最盛期の勢力図でわかる、全国の4割と4分の3の違い

織田信長と豊臣秀吉のイラスト(イメージ)

織田信長は天下統一を目前に本能寺で倒れ、豊臣秀吉はそのあとを継いで全国を統一しました。では、二人の勢力は最も大きかったときでどれくらいの広さがあり、どれくらいの石高を動かしていたのでしょうか。この記事では、信長は本能寺の変の直前(1582年)、秀吉は全国統一の直前(1589年、小田原征伐の前)という、それぞれの「統一前の最盛期」を地図で並べて比べます。

目次

比べる前に:石高と「勢力」の数え方

石高は、その土地でとれる米の量を見積もった数字で、大名の力の大きさを表すものさしです。秀吉の太閤検地がまとまった慶長3年(1598年)ごろ、全国の石高はおよそ1,850万石とされます。この記事ではこの数字を「全国」の目安にします。

注意したいのは、大名が自分で持っている土地(直轄領)と、家臣や従えた大名の土地まで含めた勢力全体は別だということです。信長の時代は全国一律の検地がまだなく、数字はどうしても推定になります。以下の数字は「おおよその目安」としてご覧ください。

ひと目でわかる比較表

織田信長(1582年)豊臣秀吉(1589年)
比べる時点本能寺の変の直前小田原征伐の直前(全国統一の前年)
勢力の広さ約30か国。北は越中・上野、西は播磨・因幡、南は伊勢・淡路あたりまで九州から北陸・甲信まで。残るは関東の北条氏と奥羽
勢力全体の石高(推定)700〜800万石ほどとも(全国の約4割)1,400万石前後(全国の約4分の3)
自分の直轄信長が直接持つ領地は約240万石とする見方がある蔵入地(直轄領)は約200万石。統一後は220万石ほど
最大の家臣・大名羽柴秀吉(約80万石とも)、柴田勝家など徳川家康(5か国)、毛利輝元(約112万石)、豊臣秀長(約100万石)

織田信長の勢力(1582年)

1582年、本能寺の変の直前の織田家の勢力(国ごとのおおまかな色分け)
1582年、本能寺の変の直前の織田家の勢力(国ごとのおおまかな色分け)

天正10年(1582年)3月に武田家を滅ぼしたことで、信長の勢力は一気に東へ広がりました。尾張・美濃・近江・伊勢などの中心部を信長と一門が押さえ、そのまわりを方面軍の大将たちの領地が囲む形です。北陸は柴田勝家、中国は羽柴秀吉、近畿・丹波は明智光秀、関東の入り口の上野は滝川一益。さらに同盟相手の徳川家康(三河・遠江・駿河)や、従っていた宇喜多家(備前・美作)がいました。

この時点で、まだ従っていなかったのは、越後の上杉、関東の北条、中国の毛利、四国の長宗我部、九州の諸大名など。6月には四国攻め、秀吉の毛利攻めへの信長自身の出陣も予定されていて、天下統一まであと一歩のところでした。

豊臣秀吉の勢力(1589年)

1589年、小田原征伐の直前の豊臣政権の勢力(国ごとのおおまかな色分け)
1589年、小田原征伐の直前の豊臣政権の勢力(国ごとのおおまかな色分け)

本能寺の変からわずか7年。秀吉は四国(1585年)、九州(1587年)を平定し、天正17年(1589年)には、従っていないのは関東の北条氏と、奥羽の一部の大名だけになっていました。近畿の中心は秀吉と一門が押さえ、弟の豊臣秀長は大和・紀伊・和泉で約100万石、甥の豊臣秀次は近江をまかされています。

そのまわりには、かつて戦った大名たちが並びます。毛利輝元、長宗我部元親、島津義久、そして家康。秀吉は彼らを滅ぼさず、領地を認めて豊臣政権の一員にしました。翌1590年に小田原の北条氏を降し、奥羽も従えて、全国統一が完成します。

直轄領はほぼ同じ。違いは「まわりの大名」

おもしろいのは、信長と秀吉が自分で持っていた土地(直轄領)の大きさが、どちらも200万石台とそれほど変わらないことです。違うのは、そのまわりの部分でした。

  • 信長:まわりを固めていたのは、自分が取り立てた家臣たち。家臣の領地は、信長の考えひとつで取り上げたり移したりできました。そのぶん統制は強いものの、敵を一つずつ滅ぼしながら広げるので、時間がかかりました。
  • 秀吉:まわりにいたのは、家臣だけでなく、降参した大名たち。毛利や島津、家康のような大大名を、戦わずに、あるいは途中で和睦して取りこんだことで、短い期間で全国の4分の3にまで広がりました。

なぜ家康は「大きすぎる大名」になったのか

秀吉の直轄領は、全国を統一したあとでも220万石ほどでした。ところが徳川家康は、小田原征伐のあと関東に移されて約250万石の大名になります。家康ひとりで、主君である秀吉の直轄に並ぶ大きさです。信長の家臣団には、ここまで大きな家臣はいませんでした。どうしてこうなったのか、背景を見ていきます。

1. 戦で勝てなかった相手を、和睦で取りこんだ

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は家康を戦場で負かせませんでした。そこで秀吉は、家康と組んでいた織田信雄と先に和睦し、家康が戦う理由をなくします。それでも家康はなかなか秀吉のもとへ来ませんでした。秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、さらに母の大政所を人質として岡崎へ送り、ようやく天正14年(1586年)に家康を大坂へ上らせて臣従させます。

力でねじ伏せたのではなく、頭を下げてもらった形だったため、秀吉は家康の領地(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国)をほとんど減らせませんでした。ここが、敵を滅ぼして家臣の領地に組み替えていった信長との大きな違いです。

2. 関東への国替えで、むしろ石高が増えた

天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は、家康に北条の旧領である関東への国替えを命じます。家康は先祖代々の三河をふくむ5か国を手放し、なじみのない土地へ移ることになりました。家康を京から遠ざけ、北条の旧臣や一揆の多い土地を任せる狙いがあったとする見方があります。

ただ、結果として家康の石高は約250万石に増え、江戸を拠点に、誰にも口をはさまれない広い領国づくりに打ちこめるようになりました。秀吉は家康の旧領だった東海道沿いに、中村一氏(駿府)、堀尾吉晴(浜松)、山内一豊(掛川)、田中吉政(岡崎)、福島正則(清須)ら自分の子飼いや信頼する大名を並べ、家康が西へ出てくるのを押さえる形をつくったとされます。

3. 朝鮮出兵で、家康は力をたくわえた

文禄・慶長の役(1592〜1598年)では、西国の大名たちが海を渡り、多くの兵とお金を失いました。家康は肥前名護屋の陣まで出向いたものの、海は渡らずにすみ、関東の兵や財力をほとんど減らさずに済んだとされます。豊臣方の大名が疲れていくなかで、家康の力は相対的に大きくなっていきました。

4. 家康をおさえられる一門が育たなかった

家康に対抗できる重しになれたはずの弟・豊臣秀長は天正19年(1591年)に亡くなり、後継者の豊臣秀次は文禄4年(1595年)に切腹に追いこまれました。秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)、跡継ぎの秀頼はまだ6歳。家康と並ぶ重みを持っていた前田利家も、翌年に世を去ります。

それでも生きている間の秀吉は圧倒的だった:金銀山と都市

では、秀吉は家康に負けていたのかというと、そうではありません。石高だけを見ると並んでいても、秀吉には米のほかに大きな財源がありました。

1. 金山・銀山からの富

秀吉は、但馬の生野銀山などを直轄にし、石見銀山や佐渡金山など各地の鉱山からも運上(税)として金銀を納めさせたとされます。戦国時代の終わりは、日本の銀が大量に掘り出され、海外にも流れ出た「シルバーラッシュ」の時代でした。秀吉はその富を握り、天正16年(1588年)には天正大判をつくらせています。

2. 京・大坂・堺・博多・長崎という都市

秀吉は京都や大坂だけでなく、商業の中心の堺、九州の玄関口の博多、南蛮貿易の窓口の長崎を押さえました。商人からの上納金や貿易の利益が、豊臣家に流れこむしくみです。

3. あり余る金銀の使い方

天正17年(1589年)、秀吉は聚楽第で、大名や公家に金5,000枚近く、銀2万枚以上を配ったと伝わります(「金賦り」)。黄金の茶室や、大坂城の金銀の蓄えも有名です。こうした財力と、関白・太閤という朝廷の権威、全国の大名に動員を命じる力が合わさって、生きている間の秀吉は家康よりはるかに優位に立っていました。

4. それでも残らなかったもの

ただし、こうした強みの多くは、秀吉という一人の人物に結びついていました。秀吉が亡くなると、大名たちに命令する役目は五大老の筆頭である家康に移っていきます。金銀は大坂城に残りましたが、お金だけでは兵は動きません。関ヶ原の戦い(1600年)のあと、秀頼は摂津・河内・和泉の約65万石の大名になり、家康は自分の石高と大名たちへの命令権の両方を手にしました。「動かせる兵と土地」を持つ家康と、「お金と権威」を持つ豊臣家。最後に天下を決めたのは前者でした。

まとめ

信長は1582年の時点で全国のおよそ4割、秀吉は1589年の時点でおよそ4分の3を勢力下に置いていました。自分の直轄はどちらも200万石台。信長は家臣団の力で、秀吉は降した大名を取りこむことで勢力を広げた、というのが一番の違いです。秀吉は金銀と都市の富、そして朝廷の権威で家康のような大大名を上から押さえていましたが、その重しは秀吉が亡くなるとともに外れていきました。家臣団の違いは織田家臣団と秀吉家臣団を比較、家族の違いは信長と秀吉の妻・側室を比較でも解説しています。

水軍のちがいは信長と秀吉の水軍を比較でくわしく解説しています。

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