ひらいわ ちかよし
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 温厚・後見 |
平岩親吉(1542〜1611)は三河出身の徳川家臣である。家康と同じ年に生まれ、幼い頃から近くで仕えた。家康の長男・信康の傅役を務め、のち上野厩橋城主、甲府城代を経て尾張犬山城主となり、徳川義直を補佐した。
家康と同い年の近臣
平岩親吉は天文11年(1542)、三河に生まれた。幼名・通称は七之助、官途は主計頭(かずえのかみ)である。徳川家康と同じ年の生まれで、幼い頃から家康に仕えた。
親吉は家康のもとで各地を転戦し、武功をあげた。天正18年(1590)の小田原攻めでも功があったとされる。
信康の傅役
親吉は家康の長男・松平信康の傅役(もりやく)を務めた。傅役は、主君の子の養育と補佐にあたる役である。
信康は家康と正室築山殿の子で、岡崎城主を務めていた。
天正7年(1579)、信康が切腹した。これにより親吉は一時幽居した。幽居とは、表に出ずに引きこもることである。
厩橋から甲府、そして犬山へ
天正18年、家康が関東に移ると、親吉は上野国厩橋城(のちの前橋城)の城主となり、3万3000石を領した。
慶長6年(1601)には甲斐に移り、6万3000石で甲府城代を務めた。のちに甲斐は家康の九男・徳川義直の領国となり、親吉は城代としてその統治にあたった。
慶長12年(1607)、義直が尾張に移ると、親吉も尾張の犬山城主となった。石高は9万3000石とも12万3000石ともいわれる。義直を補佐し、尾張の領国統治を担った。
付家老として、そして最期
付家老(つけがろう)とは、徳川将軍家の一門が大名となった際に付けられ、その家政と領国経営を補佐した重臣をいう。親吉は甲斐・尾張で義直を支えた、尾張藩の付家老の最初期の一人とされる。
慶長16年12月30日(西暦1612年2月)、名古屋で没した。70歳。子がなかったため、家は断絶した。
親吉の没後、平岩家が絶えたため、犬山城はのちに同じく義直付きの重臣であった成瀬正成に与えられた。
ゆかりの地
- 犬山城(愛知県犬山市):尾張に移った後の居城
- 前橋城跡(群馬県前橋市):旧厩橋城。天正18年から城主を務めた
- 甲府城跡(山梨県甲府市):甲府城代として甲斐の統治にあたった


















































































