あんどう なおつぐ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 剛毅・輔佐 |
安藤直次は徳川家康の近臣で、姉川や小牧・長久手の戦いで功を挙げた。家康の晩年には駿府で政務に関わり、元和5年(1619年)に徳川頼宣の付家老として紀伊田辺3万8千石余を与えられ、紀州藩の体制づくりを支えた。
家康の近臣として
安藤直次は天文23年(1554年)の生まれである。幼名は千福、通称は彦四郎、のちに彦兵衛。帯刀(たてわき)とも呼ばれた。
若くから徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで功を挙げた。家康からの信頼は厚かった。
安藤氏は三河以来の徳川家臣の家である。直次は戦場での働きに加え、家康の身近で用事をこなす側近としても重く用いられた。
小牧・長久手の戦いは、羽柴秀吉と、織田信雄・家康の連合軍が戦ったものである。長久手の局地戦では、徳川方が羽柴方の池田恒興・元助父子や森長可を討ち取った。直次もこの戦いで功を立てたとされる。
駿府の政務と頼宣の守役
家康が将軍職を譲って駿府に移った後、直次は年寄(老中にあたる重臣)として政務に関わったとされる。
また家康の十男・徳川頼宣の守役(養育係)も務めた。頼宣は駿府藩主を経て、元和5年(1619年)に紀伊和歌山へ移された。
駿府の家康のもとには、本多正純ら限られた重臣が集まり、大名統制や法度づくりなど幕府の重要な政務が扱われた。直次もその一員として家康の意向を伝える役を担ったとされる。
紀州藩の付家老
頼宣の紀州入国に際し、直次は付家老となった。付家老とは、将軍家が親藩の大名につけた家老のことである。直次は紀伊田辺に3万8千石余を与えられ、田辺安藤家の祖となった。
直次は頼宣を補佐し、紀州藩の体制づくりに関わった。寛永12年(1635年)5月13日に82歳で死去した。
紀州徳川家は尾張・水戸と並ぶ御三家の一つである。付家老は藩主を補佐すると同時に、幕府との間をつなぐ役目も持っていた。紀州藩にはもう一人、新宮の水野家が付家老として置かれた。
田辺の安藤家は、江戸時代を通じて紀州藩の家老として続いた。明治元年(1868年)には田辺藩として独立の大名となった。
ゆかりの地
- 田辺城跡(和歌山県田辺市):安藤家が付家老として代々治めた田辺の拠点
参考にした資料
安藤直次とは
安藤直次は、徳川家康に仕えた家臣で、のちに紀州藩の付家老となりました。
長篠・長久手での働き
直次は、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いで戦功を挙げたとされます。
付家老
付家老は、将軍家が親藩の大名に付けた重臣です。直次は、家康の十男・頼宣に付けられました。
田辺城
直次は、紀州藩の付家老として紀伊の田辺を治め、田辺城を本拠としました。
評価
直次は、家康の信頼を受けて頼宣を支え、紀州藩の基礎づくりに力を尽くした重臣です。
このイラストについて
このイラストは、雨の中で兵を指図する直次を描いています。
前に手を差し出す姿と鋭い目つきで、戦場で兵を率いた武将の気迫を表しました。
雨の降る陣と兵は、直次が戦った長篠や長久手の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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