まつだいら やすしげ
| 地域 | 三河国(愛知県)、丹波国(兵庫県)、和泉国(大阪府) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣(譜代) |
| 大名家 | 松井松平家(和泉岸和田藩) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 城を任された譜代大名 |
松平康重は、徳川家康に仕えた松平康親(松井忠次)の長男である。父の跡を継いで駿河三枚橋城主となり、その後は武蔵・常陸・丹波の各地を移りながら城を預かった。元和5年(1619)に和泉岸和田へ移り、岸和田藩松平(松井)家の初代藩主となった。
父・松平康親と松井松平家
父の康親は三河国の出身で、もとは松井忠次と名のった。家康に従い、永禄7年(1564)に松平の姓を許された。姉川の戦いや長篠の戦いでも手柄を立てている。
天正10年(1582)、康親は家康の四男松平忠吉の後見役となり、駿河国三枚橋城(静岡県沼津市)の城主となった。しかし翌天正11年(1583)6月17日に63歳で亡くなった。この家は、もとの姓をとって松井松平家と呼ばれる。
三枚橋から騎西・笠間・八上へ
康重は永禄11年(1568)に生まれた。初めの名は康次、通称は次郎である。父の死後、その跡を継いで三枚橋城主となった。
天正18年(1590)、家康が関東に移ると、康重は武蔵国騎西(埼玉県加須市)で2万石を与えられた。その後、常陸国笠間城、丹波国八上城の城主を務めた。徳川家にとって大事な場所を、次々と任されたことがわかる。
篠山城、そして岸和田藩へ
慶長14年(1609)、康重は新しく築かれた丹波篠山城の城主となった。篠山城は、家康が諸大名に命じて築かせた城である。篠山は京都や大坂に近く、西国の大名ににらみをきかせる要地であった。
元和5年(1619)、康重は和泉国岸和田へ移り、5万石の岸和田藩主となった。のちに加増を受けて6万石となった。こうして康重は、岸和田藩松平(松井)家の初代藩主となった。寛永17年(1640)6月27日、73歳で亡くなった。
岸和田の墓とその後の松井松平家
康重の墓は岸和田市南町にある。石垣の台と蓮華の台の上に、高さ約3メートルの五輪塔が立つ。もとは光明寺の隠居寺であった心蓮寺があった場所で、塔の地輪には康重の墓であることが刻まれている。
康重の死後、子の康映が跡を継いだが、同じ寛永17年(1640)に播磨国山崎へ移された。岸和田には代わって岡部宣勝が入り、以後は岡部家が13代にわたり、明治維新まで治めた。松井松平家はその後も譜代大名として続いた。
ゆかりの地
- 松平康重の墓(大阪府岸和田市南町):高さ約3メートルの五輪塔。地輪に康重の墓と刻まれる
- 岸和田城(大阪府岸和田市):康重が初代藩主として入った岸和田藩の居城
- 篠山城跡(兵庫県丹波篠山市):慶長14年(1609)から康重が城主を務めた城
参考にした資料
松平康重とは
松平康重は、松井松平家の当主で、徳川家康に仕えた武将です。
篠山城
康重は、丹波の篠山城の城主となりました。篠山城は、家康の命で多くの大名を動員して築かれた城です。
岸和田藩
康重は、のちに和泉の岸和田藩の藩主となりました。
評価
康重は、家康の信頼を受けて各地の城を任され、松井松平家を大名として続けた人物です。
このイラストについて
このイラストは、兵の並ぶ戦場に立つ康重を描いています。
黒い甲冑と堂々とした姿で、徳川家に仕えた武将の頼もしさを表しました。
夕日の差す戦場と兵の列は、康重が戦った戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。
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