夏目吉信 | 三方ヶ原の戦いにおいて、敗走する徳川家康を守るため家康の身代わり(身代わりの甲冑)となって武田軍に突撃し討死

なつめ よしのぶ

地域東海
所属勢力・属性徳川家臣
大名家徳川
家紋丸に違い鷹の羽
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ身代わり・忠義

三方ヶ原の戦いにおいて、敗走する徳川家康を守るため家康の身代わり(身代わりの甲冑)となって武田軍に突撃し討死。

目次

三河の武将

吉信は、三河の松平家(のちの徳川家)に仕えた武将です。1518年に生まれたとされます。

三河一向一揆

1563年、三河で一向一揆が起こると、吉信は一揆の側に加わり、家康と戦いました。

許されて帰参

一揆が収まった後、吉信は捕らえられましたが、家康に許されて再び仕えることになりました。

恩義を胸に

一度は背いた自分を許してくれた家康への恩義を、吉信は深く胸に刻んだと伝えられます。

浜松城の留守居

1572年、武田信玄が遠江に攻め込んだとき、吉信は浜松城の留守を預かっていたとされます。

三方ヶ原の戦い

家康は浜松城から出て、三方ヶ原で武田軍と戦いましたが、大敗しました。

戦場へ駆けつける

家康の軍が敗れたことを知った吉信は、わずかな手勢を率いて戦場に駆けつけました。

家康を逃がす

吉信は、敵中に踏みとどまろうとする家康を説き伏せ、家臣に命じて家康の馬を浜松城の方へ向けさせたと伝えられます。

身代わり

吉信は、「我こそは家康なり」と名乗りを上げて武田軍に突っ込み、家康の身代わりとなって討死したとされます。

恩に報いる

かつて一揆に加わった自分を許してくれた家康のために命を捧げた吉信の姿は、忠義の物語として語り継がれました。

55歳の最期

吉信は、このとき55歳ほどだったとされます。

家康の生還

吉信らの犠牲によって、家康は浜松城に逃げ帰ることができました。

夏目家のその後

吉信の子孫は、江戸時代に旗本として続きました。

三方ヶ原の犠牲

三方ヶ原の戦いでは、吉信のほか、本多忠真・鳥居忠広・成瀬正義など、多くの家臣が家康を守るために命を落としました。

供養の碑

浜松には、三方ヶ原の戦いの戦死者を弔う場所が残されており、吉信の名も伝えられています。

三方ヶ原

三方ヶ原は、浜松城の北に広がる台地で、現在の静岡県浜松市にあたります。

犀ヶ崖

三方ヶ原の戦いの後、徳川方が武田軍に夜襲をかけたという「犀ヶ崖の戦い」の伝承もあります。犀ヶ崖には、戦死者を弔う資料館が設けられています。

一向一揆と家康の家臣たち

三河一向一揆では、吉信のほかにも、本多正信など多くの家臣が一揆の側に加わりました。家康は、その多くを許して再び家臣としました。

吉信の評価

吉信は、一度は家康に背きながら許され、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した武将です。その忠義は、徳川家の歴史の中で長く語り継がれています。

このイラストについて

白髪の老将が甲冑姿で馬を駆り、マントをなびかせて戦場を進む姿です。

馬を駆る姿は、三方ヶ原の戦いで家康の軍が敗れたと知り、浜松城からわずかな手勢で戦場へ駆けつけたと伝えられる吉信をイメージしています。年長の姿は、50代半ばで家康の身代わりとなった吉信を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

徳川家

三河の国衆・松平氏から出た家。家康の祖父清康は三河をほぼ手中にしながら守山崩れで横死し、父広忠の代には今川氏の庇護を受ける立場に落ちた。家康自身も少年期を織田・今川の人質として過ごしている。

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