鳥居成次 | 鳥居元忠の三男。谷村藩主、徳川忠長の付家老

とりい なりつぐ

地域関東
所属勢力・属性徳川家臣
大名家徳川
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ堅実・忠義

鳥居成次は伏見城で戦死した鳥居元忠の三男である。関ヶ原の戦いの後、甲斐の郡内地方を与えられて谷村藩主となった。のち徳川忠長の付家老となり、甲斐・駿河で3万5000石を領したが、忠長が蟄居を命じられた直後に没した。

目次

鳥居元忠の子として

成次は元亀元年(1570)、徳川家康の家臣鳥居元忠の三男として三河に生まれた。幼名は久五郎。幼いころから家康に仕えた。

慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝を討つため東へ向かうと、父元忠は京都の伏見城に残って守りについた。元忠は石田三成らの西軍に攻められ、8月1日に落城して戦死した。成次は同じ年の関ヶ原の戦いに加わり、戦功を挙げた。

谷村藩主として

慶長6年(1601)、成次は父の旧領にあたる甲斐国都留郡を与えられた。この地域は郡内と呼ばれ、甲府盆地側の国中地方とは別に支配された。成次は谷村城(山梨県都留市)を居城としたため、その領地は谷村藩と呼ばれる。郡内領の石高は約2万石であった。郡内は甲斐東部の山がちな地域で、武田氏の時代には小山田氏が治めていた。天正10年(1582)に武田氏が滅び、家康が甲斐を手に入れると、郡内は元忠に任された。成次への宛行は、この父の旧領を継がせる形となった。

徳川忠長の付家老

元和2年(1616)、成次は将軍徳川秀忠の次男忠長の付家老となった。付家老は将軍家が一門の大名に付けた家老である。成次はこれにより将軍の直臣から忠長の家臣(陪臣)という立場になった。同役には朝倉宣正がいた。忠長は甲斐を与えられ、寛永元年(1624)には駿河・遠江を加えて駿府城主となった。その所領が広がるなかで、成次は甲斐・駿河で3万5000石を領した。

忠長の失脚と晩年

寛永8年(1631)5月、忠長は素行を理由に甲府での蟄居を命じられた。成次は赦免を求めて奔走したとされるが、その翌月の6月18日に62歳で没した。忠長はのちに改易され、成次の跡を継いだ子の成行も所領を失った。

ゆかりの地

  • 谷村城跡(山梨県都留市):成次の居城

参考にした資料

徳川家

主家

家臣団

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