湯浅五助 | 大谷吉継の介錯人を務めた介錯の名手。関ヶ原で吉継の病面を敵に晒さぬよう首を埋め、藤堂軍に捕らえられるも秘密を守り切った

湯浅五助

ゆあさ ごすけ

地域近畿
所属勢力・属性大谷家臣
大名家大谷
家紋対い蝶
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ義理・殉節

大谷吉継の介錯人を務めた介錯の名手。関ヶ原で吉継の病面を敵に晒さぬよう首を埋め、藤堂軍に捕らえられるも秘密を守り切った。

目次

大谷吉継の家臣

五助は、大谷吉継に仕えた家臣です。名を隆貞といったとされます。

大谷吉継

吉継は、豊臣秀吉に仕えた武将で、越前の敦賀の大名でした。病を患いながらも、石田三成との友情から西軍に加わったことで知られます。

主君の側近

五助は、吉継の側近として仕え、主君の信頼を得ていました。

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いで、吉継は西軍として松尾山のふもとに陣を構えました。

小早川秀秋の寝返り

戦いのさなか、松尾山にいた小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に攻めかかりました。

大谷隊の奮戦

吉継の軍は、小早川隊を何度も押し返すほど奮戦しましたが、さらに脇坂安治らも寝返り、大谷隊は崩れました。

吉継の自害

吉継は、もはやこれまでと覚悟し、自害しました。

首を隠す

吉継は、病で崩れた顔を敵に見せたくないとして、自分の首を敵に渡さないよう五助に命じたと伝えられます。五助は、吉継の首を土の中に埋めて隠したとされます。

藤堂高刑との出会い

首を埋めているところを、東軍の藤堂家の家臣である藤堂高刑に見つかったと伝えられます。

五助の頼み

五助は、自分の首を差し出す代わりに、主君の首のありかを誰にも言わないよう高刑に頼んだとされます。高刑はこれを受け入れ、五助を討ち取りました。

約束を守った高刑

戦の後、家康は高刑に吉継の首のありかを尋ねましたが、高刑は約束を守って答えなかったとされます。家康は、その態度をほめたと伝えられます。

主従の墓

関ヶ原には、吉継の墓と並んで五助の墓が建てられています。

忠義の物語

五助と高刑の話は、敵味方を超えた武士の約束の物語として語り継がれています。

伝承として

この話は後世の記録によって伝えられたもので、細部については確かでない部分もあります。

介錯

介錯とは、自害する人の苦しみを短くするため、その首を斬ることです。五助は、吉継の自害の介錯を務めたと伝えられます。

吉継の病

吉継は、重い病によって顔や体が崩れていたとされ、そのために白い頭巾で顔を覆って戦場に出たと伝えられます。

関ヶ原の墓所

関ヶ原の古戦場には、大谷吉継の墓と並んで湯浅五助の墓が建てられており、今も訪れる人が絶えません。

五助の評価

五助は、関ヶ原の戦いで主君の吉継の最期の願いを守り、自らの命と引き換えに主君の首を隠したと伝えられる家臣です。その忠義は、吉継の友情の物語とともに今も語り継がれています。

このイラストについて

鉢巻を締めた武将が、曇り空と城を背にして厳しい表情を見せる姿です。

厳しい表情は、関ヶ原の戦いで主君の吉継の最期を見届け、その願いを守ろうとした五助の覚悟をイメージしています。背景の曇り空は、西軍の敗北が決まった関ヶ原の戦場の重い空気を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

大谷家

豊臣秀吉に仕えた大谷吉継の家。吉継は越前敦賀5万石を与えられ、石田三成の親友として知られる。病で顔を白い布で覆っていたと伝えられる。

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主家

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