徳川家光 | 江戸幕府三代将軍。参勤交代を定め、鎖国の体制を整えた「生まれながらの将軍」

徳川家光のイラスト(イメージ)

とくがわ いえみつ

地域関東(江戸)
所属勢力・属性徳川氏(江戸幕府三代将軍)
大名家徳川家
家紋三つ葉葵
主武器―
衣装・甲冑束帯・肩衣
武将タイプ幕府を完成させた将軍

徳川家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の三代将軍である。二代将軍・徳川秀忠とお江の次男として、慶長9年(1604年)に江戸城で生まれ、慶安4年(1651年)に48歳で亡くなった。参勤交代を制度として定め、外国との交流を制限する「鎖国」の体制を整えるなど、江戸幕府の仕組みを完成させた。

3行でわかる徳川家光
  • 乳母の春日局に育てられ、弟の忠長をおさえて将軍の跡継ぎとなった
  • 武家諸法度を改めて参勤交代を制度化し、大名の統制を強めた
  • 島原の乱をしずめ、ポルトガル船の来航を禁じて鎖国の体制を整えた
目次

跡継ぎ争い

家光は幼名を竹千代といい、生まれるとすぐに乳母の福(のちの春日局)に育てられた。両親の秀忠とお江は弟の国松(のちの徳川忠長)をかわいがったとされ、跡継ぎは国松になるのではないかといううわさも立った。

福が駿府の徳川家康にうったえ、家康が竹千代を跡継ぎと定めたという話が伝わる。元和9年(1623年)、家光は20歳で三代将軍となった。

大名の統制

将軍となった家光は、大名たちに「自分は生まれながらの将軍である」と宣言したと伝わる。家康・秀忠と違い、戦国の世を知らない将軍として、威厳を示す必要があったのである。

寛永12年(1635年)には武家諸法度を改め、大名が一年おきに江戸と領地を行き来する参勤交代を制度として定めた。弟の忠長を改易して自害に追いこむなど、厳しい姿勢で将軍の権威を固めた。

島原の乱と鎖国

寛永14年(1637年)、九州の島原・天草でキリシタンの農民らが島原の乱を起こした。幕府は大軍を送ってこれをしずめ、キリスト教の取り締まりをさらに強めた。

寛永16年(1639年)にはポルトガル船の来航を禁じ、その後、オランダ人を長崎の出島に移した。外国との交流を幕府が管理する、いわゆる鎖国の体制がここに整った。

日光東照宮と晩年

家光は祖父の家康を深く尊敬し、日光東照宮を今の豪華な姿に建て替えた(寛永の大造替)。慶安4年(1651年)に江戸城で亡くなり、遺言により日光の大猷院に葬られた。

徳川家光をめぐる人物

  • 父母:徳川秀忠/お江(崇源院)
  • 乳母:春日局
  • 祖父:徳川家康
  • 姉:千姫
  • 弟:徳川忠長
  • 剣術の師:柳生宗矩

ゆかりの地

  • 日光山輪王寺 大猷院(栃木県日光市):家光の霊廟
  • 日光東照宮(栃木県日光市):家光が建て替えた家康の霊廟
  • 江戸城跡(皇居)(東京都千代田区):家光が生まれ、亡くなった城
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