なす すけはる
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 下野那須氏 |
| 大名家 | 下野那須氏 |
| 家紋 | 丸に日の丸 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・小田原遅参 |
那須資胤の子。佐竹氏との激戦を制するも、小田原征伐への参陣が遅れたため秀吉により改易された。
那須家の当主
資晴は那須資胤の子で、下野の烏山城を本拠とした那須家の当主です。那須家は源平合戦で名高い那須与一の子孫と伝えられる名門でした。
那須七騎
那須家の周りには、大田原・大関・芦野・伊王野・千本・福原などの有力な家臣が並び、「那須七騎」と呼ばれました。資晴はこうした家臣団をまとめて那須家を率いました。
佐竹・宇都宮との争い
那須家は、南の宇都宮家や東の佐竹家と争いを繰り返しました。北関東の諸家は、互いに争いながら、北条家の進出にも対応しなければなりませんでした。
薄葉ヶ原の戦い
1585年、資晴は薄葉ヶ原の戦いで宇都宮国綱の軍を破りました。この勝利は那須家の武名を高めた戦いとして知られています。
北条家との関係
那須家は北条家と結ぶ道を選びました。佐竹・宇都宮家と対立していた那須家にとって、北条家は頼れる後ろ盾だったのです。
小田原征伐への対応
1590年、豊臣秀吉が小田原征伐を始めると、資晴は秀吉のもとへの参陣が遅れました。北条家との関係もあり、判断に迷ったと考えられます。
改易
参陣が遅れたことを理由に、資晴は秀吉から所領を没収されました。一方で、家臣の大田原晴清らはいち早く秀吉のもとに参じて所領を認められています。
那須家の再興
その後、資晴の子の資景に那須家の名跡を継ぐことが許され、わずかな所領が与えられました。資晴自身も、のちに許されて徳川家康に仕えたとされます。
家臣と主家の逆転
小田原征伐をきっかけに、那須家の家臣だった大田原家や大関家が独立した大名となり、主家の那須家はむしろ小さな存在となりました。戦国時代の終わりに起きた、主従の逆転の一例です。
最期
資晴は1610年に亡くなりました。
那須家のその後
那須家は江戸時代に一時大名に取り立てられましたが、のちに改易され、旗本として家名を保ちました。那須与一以来の名門の家名は、こうして江戸時代にも受け継がれていきました。
資晴の評価
資晴は合戦では勝利も収めましたが、小田原征伐での判断の遅れが家の命運を分けました。天下人への対応が、武勇以上に大名の運命を左右した時代を象徴する人物です。
烏山城
那須家の本拠烏山城は、現在の栃木県那須烏山市にあった山城です。那珂川を見下ろす要害で、那須家の本拠として長く使われました。
主家と家臣の関係
戦国時代の那須家は、那須七騎と呼ばれる家臣たちの力に支えられていましたが、その家臣たちも独立性の強い領主でした。この関係が、小田原征伐での主従の逆転につながっていきます。
那須与一の子孫として
那須家は、屋島の戦いで扇の的を射抜いた那須与一の子孫という誇りを持つ家でした。その名門が戦国の終わりに大きく揺らいだことは、時代の大きな変化を物語っています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が、川の流れる平野と山並みを背にした姿です。
背景の川と平野は、那須家が治めた下野北部の那須地方をイメージしています。那須地方には那珂川などの川が流れ、豊かな土地が広がっていました。鋭いまなざしは、宇都宮家との戦いを勝ち抜いた資晴の武将としての一面を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
下野北部の那須地方を本拠とした家で、源平合戦の那須与一の子孫と伝えられる。戦国時代には宇都宮氏や佐竹氏、北条氏と争いながら勢力を保った。
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